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【殴り書き】「ゲームの作り手」として働くとはどういうことか、若手たちへ伝えておきたい話


🤔※この記事は書きかけで放り出されたなぐり書きです

この記事は昨年の2023年、ゲーム制作を掲げる私の組織で「仕事とは?」という命題に悩む若手たちに教鞭を振るっているとき、改めて痛感した業界の惨状に耐えかねて書き残そうとした手記ですが、未完です。

最後まで書ききるつもりでしたが、この節を書こうとした筆者は途中で寝てしまいました。だけども本当にゲーム制作に悩んでいる人々に「しょうもない理屈や古ぼけた権威に負けるな」と言ってあげたいので、公開しておくことにします。

未完ゆえ「何言うとんねんコイツ」となったりするところや、メモだけ残されていて「なんじゃそりゃ」ってなるところが含まれますが、この暗い時代の処方箋として誰かの心に響けば幸いです。
また同じ気持ちが再燃すれば追記するかもしれません。そんなんでよければお読みください。


📄はじめに

1983年、任天堂が発売した「ファミリーコンピュータ」によって、程々の年収があった中流家庭の人々のもとへ「ビデオゲーム」という娯楽が到来した。日本はこの40年間、「ゲーム」という娯楽文化と共に発展を遂げ、今となってはアニメやマンガと同じように子供たちの心をつかむ「夢のモノづくり職業」として地位を確立している。

世間ではゲーム制作のノウハウを教えるネット記事やYoutubeチャンネルも増え、これまで門外不出のように取り扱ってきた技術をシェアすることで間口を広げようとしており、「ゲームを作りたい」と思ったら誰でもインターネットで調べて無料で作れるような時代となった。しかし多くの消費者は世の中にあふれる高画質のゲームや大ボリュームのゲームのほんの一部にしか目を向けられず、作り手はその熱意に応えるほど消費が盛り上がっていない温度差をなんとなく感じ取っており、それを制作者、消費者ともども言葉にしないよう努めている。
「ゲームをなんとなく作ってみたい、でもそのゲームがそんなにウケるとは思えない」と疑心暗鬼とポジティブ思考の狭間で揺れるゲームクリエイターを目指すこれからの人々へ、私は伝えたいことがいっぱいある。

私は所属している企業でゲームデザイナー、プランナーを名乗る立場であるが、会社が飛躍するようなヒット作を生み出したわけでもないし世の中に名前が残っているようなこともない。有名人と人脈があるわけでもない。どちらかと言えば「どうして作ろうとしなかったの?(今まで何してたの?)」と突かれて苦い顔をするような泥だらけの生き様だ。
だが、それゆえに見てきたこと、見せてもらったこと、見透かせるようになったことがあり、それは後輩たちやインターネットの向こうにいる人々への励ましとなってきている実感がある。「まさかこんな事ができるようになるとは思っていなかった」と何人かを覚醒めさせてきた。

だから、間違ってないことを伝えたい。君たちが「作りたい」と感じるその心を。ゲームを作るために何を知らなければならないのか、何をしなければならないのか、ファミコンと共に歩んできた私からひとつひとつ語らせてほしい。どうしてゲーム制作に関する学習や実践をやってこなかったのかと問われれば、ゲームを取り巻く文化、人の心の研究に人生のすべてを費やしてきたからだ。

これは、私がこの地に残す経験値の書だ。繰り返し読めば読むほどその度にレベルが上がる。レベルキャップを外すことはできないかもしれない。だが君たちにとってそうなることを願う。

📄「ゲームを作りたい」と「マンガを描きたい」は同列の主張の別産業

多くの大人たち(あなたたちにとって同年代以上の人々)が眉をしかめる言葉として、未経験者からの「ゲームを作りたいです」という漠然としたフレーズの主張がある。SNSにおいても「実際にはやる気のないやつの言葉だ」なんていう嘲笑が溢れているが、それは全く気にしなくていい

「ゲームを作りたい」で作り出さない人物は「どうすれば実現するのか?」についてずっと推敲を続ける人材だ。やりたいことはあるがその実現に長い道のりや多くの障害があることを理解している人物は自然とそういう思考になる。単純に、物事に慎重であるという気質が表れているにすぎず、推敲するがゆえに未来予測の能力がある。例えそれが3日後のビジョンであったとしても、発売後のありもしない未来のビジョンだったとしても、何も考えずに飛び出すやつよりは前方が見えている。
そこに自信を持て。それは生き抜く上で正しい。何もしないほうが死ぬか、飛び出すほうが死ぬかを見定めて「今飛び出すと死ぬ」と直感で悟って二の足を踏む君は正しい。

例えば「マンガを描きたい」という話題に対し、多くの漫画家が「とにかく数を書け、そうすればできる」という金言を発する。マンガを描きたいという漠然とした主張は受け入れられにくく、口だけ達者で手を動かさないやつはそもそも才能がないと罵られることもあり、ゲーム制作においても同じ話と同列に捉えられる。そこまではそうだ。
しかし、「手数を増やせばプロになれる(だからさっさと作れ、簡単な時代になったんだからできるだろ)」というマンガ制作と同じ思考でゲーム制作は語れない。それはなぜか。マンガは手を動かせばいい環境が既に整備されていることを多くの大人たちが意識しないからだ。

マンガはアニメやゲームと並んで制作の苦難が描きやすく、数々のクリエイターが体験談や教訓をSNSで語り合っている。それゆえに一般人からの認知度も高く、尊敬度も高い。ただ、マンガはゲームや映画・アニメの制作と圧倒的に異なる強みを持っている。その強みとは流通ルートの多さと約束された宣伝効果だ。
なぜ数を出せば成功するのかと言うと、ビラを配れば知ってもらえるという社会構造を売り(=商売の要)にしようとする業者と、商品を仕入れて流通先を確保しようとする業者の手厚いサポート(人によっては搾取構造とも言う)が現代社会に根付いているためだ。多くの人が体感として心得ていよう。これはあとで語るが「出版」のことである。

この出版のサポートを受けられない、または受ける必要のない漫画家は、独自のルートと宣伝費を確保して自らその工程を踏まなくてはならない。それは「同人誌」という成果物として世間に認知されている。ゲームにおいてもその活動は行われており、「同人ゲー」という呼び名で愛されてきた物も、もちろん存在する。例えば「ゆっくり」の元ネタで知られる東方Projectがそうだ。

東方風神録 〜 Mountain of Faith.

そんなクソ長い前置きを置いた上でそれを理解しなければ響かない次の言葉は、マンガやアニメは媒体の中身を考える事業だが、ゲームは媒体の仕組みを考える事業だということだ。「ゲームを作る」にあたっては、いくらネームバリューがあろうとも一介のアニメ屋、映画屋には到底作れない代物に手を出そうとしていること、それに対して世間一般ひいては業界内の人間の理解があまりに低いことを覚悟してほしい。
具体的な話をすると、漫画家は編集社や出版社のことは気にかけず作品に集中しても職務を全うしているのだから文句は言われない。だがゲーム屋は媒体の中身となる「コンテンツ」を備えたうえで編集、流通、出版、経済、法律、保守、運用など幅広い分野に手を伸ばさなければならず、それをうまく使いまわしてサイクルに載せるためには会社レベルでの規格、ガイドラインと呼ばれるものを制定しなければならない。それが「ゲームを作る」ということになる。
おかしな話だろう。ゲームを作りたいとつぶやく君たちは漫画家で例えるなら、編集担当や出版担当のいる会社に入り、その膝もとで「早くお前の描きたいマンガを描け」と縛り付けられながら、それを何処で展開し何を宣伝してどう売るかを一緒に決めさせられるのだ。作品に集中など、ろくにさせてもらえない。

「マンガを描きたいです」という素人の漠然とした想いに漫画家がする返事は「とにかく描け、そしたら成れる」だが、その素人の想いにゲーム屋がする返事はそれ以前の問診がメインで「まず展開先を決めてください。Webですか?Windows?iPhone向け?それともSwitchやPS5?どうやってページをめくります?規格はどれにしましょう?そもそも紙媒体への印刷は視野に入りますか?手で描くのとソースコードで描くのどっちが速いですか?要件に合わせて制作手法と発注先が変わります明日までにお返事を」と、頭が痛くなるようなシステム構成の合意形成を行わなければならず、多くの人が楽しみにしているような「どんなジャンルでこんな展開で誰をターゲットにこれくらい売れて…」という話には進まない。なんなら「それは作るお前が考えろ」とまで言われることさえある。

この、同じような事業のはずなのに制作進行に違和感が出る理由を多くの日本人は理解できていない。ただ、そんな人々に「そうか、そっちだったか」と気が付いて振り向いてもらえる方向が1つだけある。それは「おもちゃを作りたいです」と唱える人間に示される道筋だ。

ゲームは、メディアではない。玩具なのである。君たちの前に立ちはだかるほぼすべての大人たちは、この事実を忘れている。あるいは、忘れさせようと誘導している。

ファミリーコンピュータ 40周年

📄ゲームの「企画」とは何から何を指すのか

ゲームの内容を作ってみたい、アイデアを盛り込んでみたい、ゆくゆくは監督=ディレクター業やプロデューサー業もやって有名になりたい、そういった想いや野望を持つ企画・運営志望のクリエイターの卵は多いことだと思う。だが、ゲームの「企画」を作るゲームプランナーと一言に言われてもどんな仕事内容があるのか、ピンとこない人が大半だろう。いくら業界での実務経験が長い人間で鼻が高かろうと、それを細分化して「企画の仕事はコレ」と提示できる人間はほとんどいないか、限られている。

その理由は、「ゲームプランナー」という役職がその担当区域の幅広さに押し潰されて多角化・複雑化しているからである。ゲームプランナーが「企画」と称して行わなければならない業務、ないし専門家が必要ないと人事側に判断されるばかりにプランナーが兼務する羽目になる業務はざっくりと一覧してもこれだけある。

❖ゲームを作り始める前(立案)

  • どんな製品にするのか、概要の説明

  • 誰に響く製品にするのか、ターゲットの選定

  • 何がスッキリするのか、痛みの解消のテーマ

  • どんな遊ばせ方をするのか、ルートの構築

  • どんな儲け方をするのか、売買の仕組み

  • いくらで虚勢を張るか、予算申請

  • 誰を味方にするのか、チーム編成

❖ゲームを作っている最中(開発)

  • 何を用意しなければいけないのか、機能の割り出し

  • いつまでにやらなければいけないのか、スケジュールの管理

  • どのような仕組みになるべきなのか、構造の図解

  • 誰に任せればいいか、担当者の指定

  • こんな素材をいつ頃までに、アートワークやサウンドの発注

  • うまくいかないだと一体どうすれば、不測の事態における舵取り

  • どこまでやったらヨシとするか、品質に関するジャッジ

❖ゲームを作り終える前(収束)

  • どんな強さと動きにするか、難易度に関する調整

  • 自分のミスを認めなければ死ぬ、仕様変更と軌道修正

  • 間違った操作で台無しにしないよう、運用ルールの制定

  • できたと思うな地獄の一丁目、デバッグ期間の見積もり

  • クビを切られても心は曲げるな、一声どころでない鶴たちの品評会

❖ゲームを作り終えた後(運用)

  • 「飽きたつまらん」に付き合うのか突き放すのか、追加コンテンツ

  • 本日のヘッドラインニュース、SNSでの売り込み活動

  • 今月いくら儲かったか?ため息まじりの業績評価

  • 怒られるのは上司からだけではない、クレーム対策も含めたカスタマーサポート

私が知っているだけでもこんな具合だ。Nintendo Switchなどの家庭用ゲーム機ではここまで大掛かりな体制はいらないかもしれないし、大手企業の場合には責任の分散が専門の部署へ適切に行われ、大きなストレスはないかもしれない。だが、ゲームの企画とは「一体全体どうするおつもりで?」という方針、計画をあっちこっちの部署に顔を出しながら決めて伝え、決めて伝えを繰り返し小間使いのように飛び回らなくてはならないのだ。
「ゲームプランナーの仕事とは?」と尋ねられて「とにかくいっぱい企画書とアイデアを出すことですね、絵が描けるとより有利です」と気楽な顔して無責任なことを言えるならどれほど脳天気でいられたか。実際には語感から期待される役目をこなしたうえで、誰もやらなくなった雑用やトイレ掃除を率先してしかも嬉々としてこなせるか、のみが資質として問われる。もちろん、それだけ泥をかぶってドブさらいをやってもディレクターやプロデューサーを名乗らなければ手柄は他人のものになる。世間から良い評判をもらえても社内の権威に気に入られなければ次はない限界集落風習もついてくる。

本来ならば企画は企画だ。「このようなアイデアのものを作って欲しい」と山ほど発注して、適当に仕事を作りまくるのが本来の役目だと言えるし、そのデイリーミッション製造機で収まっているなら、なんとも優雅でお気楽なお仕事だ。そしてその人材はそんなには役に立たない。「仕事がなくなっちまったなあ、どうしようかな」ていう人へのお題なんてChatGPTにでも決めさせりゃいい。悪いが本職のゲームプランナーは雇われてない役職の穴埋めにばかり走らされて、それどころではないんだ。「イメージが沸きません」と文句をタレてくる熟練デザイナーに向けてイラストを代わりに描いてあげる必要すらある。

ゲームの「企画」とはもはや「すべて」である。プロジェクト管理と呼ばれる業務をプロマネの代わりにどれだけモノにできるかが勝負だ。仲間を集めろ、不合理には歯向かえ。アイデアなんぞ下手に小手先を利かすから狂うんだ、舌先三寸で構わん。進むかどうかは勝手に乱れる波に任せろ、漕いでも進みはしない。とにかく自分が今どこを航海しているかだけを考えるんだ。先を見据えろ。間違っても命を落とすな。そして落とさせるな。使えるか使えないかなんて議論してる暇があったら、あるもの全部使って金と成果だけかっさらって扉を開けろ。暇人を引っ張るのは忙しいぞ。

📄「ゲーム業界」というワードは業界の人々が自らの視野を狭めるためのフェイク

ゲーム制作の業界には「パブリッシャー」と「デベロッパー」という用語が昔から存在する。パブリッシャーは出版社、つまり販売を担う会社のことで、デベロッパーは開発会社、つまり生産を担う会社のことだ。それぞれ事務所と工場という関係性だと思ってもらえばいい。
マンガの業界では出版と共に「編集」という工程もよく描かれ、編集担当者は作品の方向性や作家への提案、もしくは出版社の意向を伝える調整役として機能する。会社によって権限は様々だろうが、ゲーム制作におけるプロデューサー(=金やコネの都合をつける交渉人)やディレクター(=製品の方向性を決める監督)の役割がそれにあたると考えてほしい。

このように、ゲームの業界とマンガ、アニメ、加えて映画の業界は構造が大変似ている。これは日本経済の基本的な仕組みもさることながらゲーム、マンガ、アニメが「メディア」として一緒くたに定義されてきた歴史が絡んでおり、テレビと密接な関わりがあったからである。

もはや2023年においてはほとんど息してないテレビ業界なわけだが、ファミコンやスーファミが人気を博した1980年代〜90年代においては「ゲームはテレビの敵、社会の敵」として、えげつないほどのネガティブキャンペーンが行われていた。ビデオゲームが売れて遊ばれるほどテレビの視聴率が減るため、CMまでは流してもゲーム情報番組はそんなに喜んで放送しなかった。ゲームプレイの実況や大会なんてものは地方局で気まぐれに放送される程度だった。ビデオゲームを遊んでいる子供は義務教育を怠るという偏見も手伝って「頭が悪くなる、犯罪率が上がる」と報道され、ゲームセンターは「不良のたまり場」として紹介され、利発的な子供からも敬遠され親世代からも忌み嫌われた。電車の中で携帯ゲーム機を遊ぶ行為は白い目で見られた。ゲームの文化を守ろうとした大人たちは「子供たちの非行を促す悪い大人だ」と社会から散々叩かれ、どの方面を見てもそれはひどいものであった。(マンガが生まれた頃の昭和のエピソードにそっくりである)

ゲーム脳(ゲームのう)は、日本大学文理学部体育学科教授で脳科学者である森昭雄が2002年7月に出版した著書『ゲーム脳の恐怖(NHK出版)』において提示した前頭前野のβ波が低下した状態を表す造語である。マスメディアや教育者に支持され話題となったが、その後、様々な研究者などから批判され、疑似科学(ニセ科学)ともいわれた。

私が過ごした学校ではビデオゲームを趣味とする子供はネクラだのヒヨワだの社会的弱者の称号を与えられてイジメの対象になり、ゲームが不健全で幼稚な遊びであるという価値観を広められたうえで「俺はもうゲームから卒業した」と謳いマウントを取りあう活動が流行したこともある。それほどまでにビデオゲームという玩具は日本全国で社会の敵として報道され虐げられ続けてきた。

2000年代を過ぎてインターネットとケータイ(フィーチャーフォン)が普及し、ゲームだけがテレビの敵ではなくなった頃から、突然テレビ業界がゲームと仲良くしようとすり寄ってきて2023年の現在においては評価が掌返しされることとなった。そのほうがテレビ業界にとって都合が良く、またゲーム業界もメリットが多くまんざらではなかったため、今の形に落ち着いたが、それゆえに数々の勘違いを招き共倒れの危機を今、迎えている。

(ところでお気づきだろうか、任天堂は2012年に日本で最も早く「テレビが必要でない据え置きゲーム機」を発売してテレビから離れていることを)

そもそもの間違いは、ゲームがテレビと繋がっているものだと流通・経済に関係する人々や小売店が勘違いしていたことから始まった。今でも音楽CD売り場などでは「ゲーム・アニメ」と一緒くたに帯が貼られているが、これは「テレビを利用した玩具」をどうしたものかと考えたときに「社会の敵グループ(マンガ→アニメ→ゲーム)」として分類したものの名残でしかなく、娯楽の分類としては誤りなわけだ。
それに20〜30年間さらされた人々は、「テレビにつないでアニメを流すゲームがマンガ雑誌で紹介されてあるんだからみんな友達だよね」「ゲーム機で映画のDVDが見れるなんて素敵だね」って笑いながら手をつないで歩けることを喜んだ。それがメディアによって焼き尽くされた焦土と屍の山の上であることも気づかずに。

この数々の勘違いと不幸が今のゲーム業界にもたらしたものは、力関係の逆転である。もともとはテレビという、既にあった道具を利用した玩具に過ぎなかったビデオゲームは、メディアという曖昧なワードを通じてテレビ業界、ついてはマンガを取り込んだ広告業界の配下となったのである。一部のYoutuberがゲーム業界や一部ゲーム制作会社の腐敗に関して言及している動画が人気を博していたりするが、それは裏側から語ると「ゲーム業界側がテレビ・広告業界の言うことを聞いた」だけであり、政治における力関係が歴然だったということを示している。

これ以上は野暮なことだから語るまい。俺達は戦争がしたいんじゃなく、焼夷弾を投げ込まれて踏み荒らされた玩具の文化を取り戻したいだけだ。だから花を植えてる。

多くの夢が語られ、これからも躍進の続きそうなニュースが溢れかえっているゲーム業界だが、2000年以降の日本におけるゲーム業界はテレビと共にインターネットに押し潰され、80年代〜90年代の頃のような玩具のテイストや文化を完全に失い、テレビ・広告業界(もう少し言うと2010年頃からのWebアプリ・パチンコ業界)に取り込まれる形でほぼ消滅している。別モノに取り込まれた後の業界でしつこく「ゲーム業界」というワードを界隈の人々が使い続けるのは、いつかその玩具の文化が復活することへの願いと共に、自分たちを取り囲んで縛り付けている別の業界を見てみぬふりして過ごせるようにするための呪文として唱えているのだ。

2023年におけるゲーム業界の実態は、一斉を風靡したはずなのに今では影が薄くなったあの業界の天下りだ。だから、偉い人が変なこと言ってても、気にするな。彼らに作れる玩具はない。酒をついで女を呼んで大好きなテレビでもつけてさしあげろ。軍平さんのようなおもちゃ屋の生き残りを探せ。

# 「判断をしたい人間」に想像力は存在しない

  • 「判断をしたい」のは理解してないから

  • ABテストの意味はCを召喚するための生贄

  • イラストが出る前の説明には反応せず、イラストが出てから反応するのは消費者

# 舞台を作りたいか、部品を作りたいか

  • 舞台はシステム、部品はコンテンツ

  • 家を好きに作っていいと言われて部屋の間取りを考えるならシステム、部屋の中のインテリアを考えるならコンテンツ

  • 「間取りを用意してくれたら飾り付けはやれます」はもはや消費者

# 「失敗したくない」のは君なのか親なのか

  • ここでの「親」は両親だけでなく母体の意味合いも含む

  • 自分が嫌がっているなら慎重に入念な準備のもとコケろ

  • 親が嫌がっているなら何の準備もせずほったらかしてコケろ

  • まだ始まっていないなら飛び出さずに様子を見るのは賢明だが、始まっているのならば停滞したほうが死ぬ。それはやる気の問題や「やりたい」という意志、「やらなければ」という焦り、「うまくいかないかも」という不安などとは全く無関係に停滞したら死ぬ。何かしていれば失敗しない

# 生成AIによって日本のゲーム制作が楽になることはない

  • 「選びたい」人間は決定後のものを突っぱねる

  • 生成AIはいびり甲斐がないために取締役から飽きられる

  • 注文者からのプロンプトを作業者が受け取り、作業者がプロンプトを生成AIに与える伝言ゲーム

# あとがき

いつかこの記事が、未来を生きる子どもたちにとって昔々のおとぎ話となっていることを心の底から願う。


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