見出し画像

鉄から土へ。十三年ぶりの尾鷲

当時はたしか大宮大台で高速をおろされ、そこからひたすら国道四十二号線の峠道がつづいた。まだ運転が不慣れだったので、カーブがつづく山道やすれ違う車に気をつかい、そうとう疲れていたと思う。そうして最後の馬越峠をこえて下り道にさしかかったころ、とつぜん、木立に閉ざされていた視界が一気に開け、急に、建物が密集する巨大な町が目の前に現れた。火力発電所の鉄塔が天を突き、オセロの駒を積み重ねたような形をした石油タンクが並び、遠くに海がひろがっていた。

もう十六年前、赴任地が尾鷲に決まり、前任者からの引き継ぎのために初めて尾鷲に着いたときのことだ。私が暮らしていた当時は、松阪まで二時間近くかかったように思うが、今では高速がつながり一時間もかからないうちに、尾鷲に着いてしまった。視界が急に開ける峠の下にもトンネルが掘られたいまは、玄関口が変わり、到着したときの風景が変わった。インターチェンジを下りてしばらく走り、国道にぶつかる交差点に近づいたころにようやく、尾鷲に着いたと実感した。

本当は、峠を越えた瞬間のあの胸の高鳴りを感じたくて、ひとつ前のインター付近を流れる清流で涼んでから下道で尾鷲に入ろうと思っていたのだが、にわか雨が降ってきたのでそのまま高速でむかうことになった。

私が尾鷲を離れてから十三年になるらしい。数えたらたしかに間違いないから、らしい、を添える必要はないのだが、それだけの時間がたったという実感がわかない。当時、毎日のように入り浸っていた喫茶店に顔をだした。ネルドリップに湯を落としているお父さんには、もう忘れたわ、としゃがれた声で言われた。そうだ、お父さんは、あまのじゃくだった。妻のおばあちゃんといっしょだ。こういうコミュニケーションの取り方だったなあ、と懐かしむ。だが、十三年という時間は重い。赤ちゃんは中学生に、未就学児は高校生に、小学生は成人に、高校生は三十歳になる。何かを忘れるには十分な年月だ。かつて軒先には、枯れ枝がのびる植木鉢が並んでいた。お父さんはそれを、侘び寂び、だと言っていた。いま並んでいる植木鉢では、みずみずしい葉を茂らせた植物が日を浴びていた。道路をはさんだところを流れる川は、あいかわらず枯れていた。

風景といえば、もうひとつ気になったことがあった。国道から矢浜のほうに折れて向井へ行こうとしたときのこと、とたんに車窓を流れる風景にピンとこず、道がよくわからなくなってしまった。石油タンクがなくなっていたのだ。鉄塔がなくなったことは、なんとなくイメージできていたが、石油タンクのあった場所も更地になり、風景が変わり、道の感覚が狂ってしまった。

支局に顔を出した。薄汚れた灰色のカーペットはそのままだった。お世話になった事務員さんと、私が離れたあとのことや最近の尾鷲のことを雑多に話す。懐かしいひとに電話をかけてみようという流れになり、県庁舎で知り合ったあと一頃うちの支局でも働いていた女性と、天満浦のまちづくりチームをひっぱっている女性に連絡した。二人とも相変わらず元気だった。ひとりめは、話しているうちにいろいろ思い出したらしく、そんなことまで、という内容を淀みなくしゃべっていた。相変わらずよくしゃべる。なんでも、お孫さんがもう高校生になりバイトをしているらしいのだが、そのバイト先がなんと、数日前に昼飯を食べたところだった。そういえば注文を受けて配膳してくれた女の子はそれくらいの歳だったので、もしかしたらお孫さんだったのかもしれない。ふたりめは、もう八十すぎになったと思うのだが、切り盛りする拠点の古民家がもうすぐ百周年で何かやろうと思っているとか、ゼロカーボンとか、先日内閣府のひとが来たとか、飛び出す言葉の勢いが、当時のまま力強かった。あんた、まだまだ若いんやからなんでもできるよ、と応援してくれた。

向井にある温浴施設に行った。当時、よく話したひとの名前をだしてみたが、もういなかった。真っ昼間に入る風呂は気持ちがいい。妻より先にあがり、待合所にある物産品を眺めていると、背後から電話をする声が聞こえた。すぐにわかった。たぶん見るよりも見ないほうがわかったと思う。考える時間を無視して飛びこえ、古い記憶に直接作用する感じ。見た目ではなく、声色、昔のまんまだった。電話ごしのひとに、呼びかけるように話しかけている。相手はおそらく市役所のひとだろう。電話を切ったタイミングで声をかけた。もう十五年近く前になるのですが、◯◯新聞の記者で……、と切り出すと、ふくちゃん!あんた、いまどないしいよん、身体はだいじょうぶなんか? と溢れ出るように返事をもらい、覚えていてくれた。もう最長老の市議のひとりだという。数年前に亡くなった盟友の話もした。こんど来るときは、うちに泊まってきいさ、ほんまに、かまわんのやで、と言ってくれた。

雨が弱まっていたので、その後に熊野古道センターにも寄った。でも、知ってるひとはもう誰もいない。ひとりは伊勢志摩のべつの博物館に、ひとりは尾鷲にいるがおそらく主婦に、ひとりはまったくわからない。もうひとりは、その日の前日、久しぶりに熊野のイタリア料理店で話題にのぼった。辞めたあとしばらくは、熊野の入江の集落で雑貨屋さんをはじめたはずで、そこまでは知っていた。だが、いまはもうそこにはいない。料理店の奥さんによると、山口県のはずれのほうで、キッチンカーや雑貨屋をやりながら、旦那さんとバンドも組んでいるらしい。おもしろそうなことをしている。いつか山口にも行きたい。そういえば、この熊野の料理店で、若い女性が働いていたので声を掛けると、あるじ夫婦の娘さんだという。いまは熊野を離れて大学に通っているが、夏休みのあいだ、店を手伝っているらしい。

夕方、紀望通り沿いにある寿司屋へ。背伸びをしてカウンターの寿司屋だ。当時のわたしには敷居が高く自分ひとりでは行けなかったが、ある人が送別会で連れてきてくれたところだ。大将も女将さんも、めちゃめちゃ優しいひとだった。カウンターの寿司屋に慣れていないわたしたちにも優しく接してくれて、気を利かせておまかせで握ってくれた。カツオを二貫、目の前に置いたときに、大将が何かを言ったのだが、もともと声が小さくこもっているのに、さらにちいさな声で、ごしょごしょ、と聞こえた。赤いカツオの身のうえに乗った生姜に視線を落としながら言ったので、生姜のことだろうかと思ったが、あとからわかったのだが、サービスしてくれたみたいだ。支払いのときの金額も、なにかとおまけしてくれたように思う。最高の店だった。

夜、先ほどの喫茶店の友人が、懐かしいひとを集めて、久しぶりに話す会を企画してくれた。支局の事務員さん、他社の記者仲間、カフェの市民活動を通じて知り合った県職員のひと。記者仲間のひとが、顔を見るなり、おかえり!と言ってくれた。わたしが尾鷲を離れたあとの足跡をたどり、九月からはじめる子どもの学びの場作りの話をしたときに、喫茶店の友人が言った。京都から尾鷲に子どもを連れてきて農業体験をして交流して、こんどは尾鷲から京都に連れて行ってものづくり体験をしたらええやん。お互いの土地でいっしょに体験し、教えあい、学びあう。すぐにはできないかもしれないけれど、これまでの職場の縁をつなげて、いつか実現したい。

この農業体験だが、県職員のひともよく子どもを連れて参加しているらしい。向井の温浴施設のうえにできたらしい。京都に戻ってから調べてみた。

ヤードサービスはもともと火力発電所内の施設メンテナンスなどを請け負う企業だった。その発電所の完全撤退が発表されたとき、岡さんは経営判断を迫られた。中部電力の下請けを続ける選択肢はあったが、仕事場は県外の発電所になる。当時二十数名いた社員全員と話し合った末、尾鷲に残る道を選んだ。

熱い!

そこに現れた強力なパートナーが、伊東将志さんだった。

! なんと。

岡さんたちの目指すところを「鉄から土へ」というスローガンに落としこんだのは伊東さんだ。ただし、「発電所の仕事をしていた会社が農業を始めました、という単純な話ではない」と強調する。

「以前この山の斜面で甘夏を栽培していた農家たちは、いまゼロになりました。そうした耕作放棄地を地域資源として活用し、この地域に子どもたちが走り回る風景を取り戻すという目標を実現しようとしているのです。尾鷲では発電所が撤退して経済がダメージを受けましたが、これからは日本中で同じようなことが起こるはず。ヤードサービスが敢えて険しい道を選び、事業継続を目指す姿は必ず全国のモデルになります」

尾鷲をどう変えていけばいいか。伊東さんが多くの人と意見交換する中で浮かび上がってきたテーマのひとつが教育だった。

教育。わたしがやることと重なるじゃあ、ないか。

2022年、この事業の運営主体として一般社団法人つちからみのれを設立。

わたしは「つくるまなぶ」。名前の感性もなんとなく似てる。

「火力撤退による経済損失の総額は正確にはわかりません。ただ、市が巨額の税収を失ったのは確か」と語るのは、尾鷲市水産農林課の芝山有朋さんだ。

芝山さん!

今回の旅ではまだまだ会えなかったひとが多い。伊東さん、芝山さん。そのほかの市役所のお世話になったひとも、みんな課長になっているという。元県職員で車好きの友人、葉っぱのシェフ、熊野古道センターのひと、今はなき銭湯の釜番、など。あと、まだ会ったことはないけど、当時高校生でowasebonを見ていたという、まちづくりにかかわっているひと、亡くなった大将の背中を見て育った孫の男の子が大きくなり、女将さんと並んでカウンターに立っている寿司屋。九鬼の集落にある本屋。

時間をあけずに、また行きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?