3行日記 #128(最期の力、靴磨き、おさつどきっ)
一月二十七日(土)、くもり時々晴れ
朝、起きて台所にいくと妻がキッチンタイマーを持ってきた。ネジを回してカチカチ時間を刻むものなのだが、ネジを回しても抵抗がなくすぐに「0」に戻ってしまい、ジリジリジリとベルが鳴ってしまう。おそらく十年以上は使っているもので、もうそろそろ壊れてもしょうがないなと思い、それでも愛着もあったので、同じ品を探してもういちど買おうと決めた。しばらくして、朝のお通じをもよおしお手洗いから戻ってくると、妻が食べかけのホットケーキと大根と揚げの煮物をよそに、工具箱を取りだし、なにやらがさごそやっている。キッチンタイマーの背にプラスドライバーを当てて、分解を試みるところだった。まだ直して使えないかな。妻は、なにかに失敗したり、壁にぶち当たったりすると、どうにかそれを取り返そうと躍起になるところがある。あまり期待せずにそのようすを静かに見守る。すると、裏の蓋を開けてすこしいじっただけなのだが、先ほどの無抵抗ではなく、歯車が噛みあってカチカチ動く感触が戻っていた。だが、こんどは0になってもベルが鳴らなくなってしまった。もう一度だけ確かめてみて、だめだったら新しいの、買おうね、と言って、タイマーを五分にセットして皿洗いをしながら待つことにした。五分後……ジリジリジリジリ! ベルが鳴った。歯ブラシを口に突っ込んだ妻が慌ててそのようすを確かめにくる。直った! 笑いが止まらない。すっかり元通りになったのかと思い喜んだものの、そのベルが彼の最期の仕事になった。修理してくれてありがとう、その気持ちだけで十分だよ。彼は最期の力を振り絞って、鐘を打ったのだ。長い間、ありがとう。
午後、小学生の男の子に、靴を磨いてもらった。妻の職場に通っている男の子が、職業体験で店に立つ機会があったのでお願いした。少年は黒いエプロンをまとって、襟もとに、顔の幅くらいある臙脂色の蝶ネクタイをしていた。作業台の高さにあわせるために、靴箱のうえに立ち、ときおり背伸びをしていた。目の前の靴だけをじっと見つめる黒い目は、ブラシの毛と靴が接する一点だけを見すえる。縦に横に、シャカシャカシャカ、ブラシを走らせる。少年の頬はほんのり赤らんでいた。白い布を人差し指に巻いて、専用の液体を黒革にまんべんなく塗る。最後の仕上げに、足の甲、踵、横の縁の細かい溝まで、縫い目にそってブラシを何度も往復させると、天井のライトからの光を照り返し、黒い革靴が艷やかに輝いた。少年が磨きおわった靴を私に渡す。お母さんになにやらこそこそ耳打ちをする。次にやることを確認したのだろうか。落ち着きはらった声で、ありがとうございました。ぴょこりと頭を下げた。いくらですか、千円です。紙幣をわたす。店長といっしょにレジにむかい帰ってくる。レシートです。恥ずかしそうに伏し目がちに微笑む。また、来てください。椅子に座ってひとやすみ。座面が高く、宙に浮いたかかとをぷらぷらさせている。持ってきたお茶をごくり。ほっとして緊張がゆるんだのか、はぁあ、と息のかたまりを吐きだした。少年に磨いてもらった革靴をはく。いつもよりこころなしか履きごこちもいい気がする靴を履いて、ショッピングセンターの紳士服売り場を歩いてその場をあとにした。
夜、昨日の残りのけんちん汁、茹で鶏、鶏雑炊。妻が薄く切ったさつまいもをオーブンで焼いておさつどきっを作った。甘じょっぱくておいしい。チャックの散歩、東へ、ファミマを右へ、JRの駅をかすめて帰宅。神社で久しぶりに猫おじさんを見かけた。