3行日記(太陽劇団、ムヌーシュキン、愛)
十月三十一日(火)、晴れ。
最近、来日中の太陽劇団にふれる機会が多いので、感じたことを思いつくままに書きつけようと思う。まだ生で公演を見たことはないが、過去の公演を映像に残したもの、『堤防の上の鼓手』と『1789』を見て、ムヌーシュキンのトークに参加した。
演劇の力について考える。小説とくらべてものすごく直接的だ。劇的。演劇の経験が豊富なわけではないので知らないだけかもしれないが、静かな演劇というのもあるのかな。私が見た太陽劇団の演劇は、心の声が直接的に語られる。その破壊力、衝撃はすごい。『1789』では観衆の近くで囁くように、噂話をするように、劇場内のたくさんの場所で集会が開かれているように、十分以上続いていたと思うのだが、直接語りかける場面に圧倒された。また、先日の堤防の上の鼓手では、最後、多くの市民が川に飛びこむ場面。人形が放り込まれる場面。あと、水中でもがく場面の文楽の要素の表現の豊かさ。いずれの作品も、見終わったあとの衝撃。塊で見せられた、殴られたような、直接的な衝撃、痛さ、凄み。
それと比べて、小説は、とりわけ私が好む小説では、直接的、衝撃、というものよりも、間接的、じんわりと、湯煎、受け身的、待つこと、静けさ、わずかなゆらぎ、よくわからないもの、日常のささいなこと、ふとした瞬間、細部の描写の積み重ね。そういうものがもつ力を信じている。もちろん、小説にも、直接殴られたような読後感をもつ、衝撃的なものもあるが。
読んでいる本のなかにあるムヌーシュキンのインタビューで、一九七〇年代の古いものだが、こんな箇所があった。
ここに、ムヌーシュキンが演劇には世界を変える力があると信じている理由を感じた。ムヌーシュキンが、太陽劇団が大事にしてきたものは、集団創作、即興性、身体性、大衆演劇。
また、ムヌーシュキンには愛を感じる。劇場を愛にあふれる場にしたい、観客を愛をもって迎え入れたい。自分も愛されたい、そういう気持ちを強く感じる。
書ききれないが、きょうはここまで。今週末はいよいよ、生で『金夢島』を見る。