第一部 第六章 別れ
もうじき、春の花も散り、夏が始まろうというのに、風は冷たく、空は澄んでいる。
そろそろ日も落ちるというのに、ラーレは籠を手に、里の奥から、まだ頭に雪をかぶった山々へと繋がる道を進んだ。
目的は、西向きの高台に群生している、カリヤスという草だった。まるで、落ちていく夕日を吸い込んだような色をした、カリヤスは、それを煮出し、糸や布を染めるのに使うのだ。
カリヤスを摘むのは、里での大切な仕事の一つだ。けれど、それは今すぐに、しなければいけないことではなかった。皆から離れて一人きりになりたい――そんな気持ちが、ラーレをそこに向かわせたのだ。
これも、きっと、この心に秘めた恋という気持ちのせいだろうと、ラーレは思った。一人きりになりたいだなんて思ったのは、生まれて初めてのことだった。いままでは、みんなといる時間だけが、心安らぐときであったのだ。
アスランがこの里を訪れてから、もう、ひと月ほどが経とうとしていた。そして、すっかり回復した彼は、明日、旅立ってしまうのだった。
この恋は、そのときまでだと、ラーレは決めたはずだった。しかし、それなのに、その胸に咲いた、恋という名の花は、盛りを過ぎて枯れていくどころか、明日を、あさってを、そしてその先の未来を夢見るように、日に日に美しく咲き誇っていくのだった。
――こんなはずじゃなかったのに。
自分の胸の中に育った感情を持て余し、ラーレは苦しんだ。それはまるで、自分が自分ではなくなってしまうような苦しみだった。
アスラン、私も一緒に連れて行って。
そう言ってしまえたら、どんなにか楽だろうと思うほど。
しかし、アスランは去ってしまう。それは初めから分かっていたことだ。ならば、明日、笑ってさよならが言えるように、この気持ちに蓋をしなければ。
ラーレは心を落ち着かせるように、カリヤスの草原にしゃがみ込んだ。その西日に輝く黄金色を一つ、摘み取った。願わくば、この優しい色のように、私の心が穏やかになりますように。
しかし、その一人きりの静寂は、すぐに、その名を呼ぶ人に遮られた。
「ラーレ! こんなところにいたのか」
ラーレは、驚いて振り返った。
「アスラン?」
しかし、振り返った先に、自分の名を呼んだ人の姿はどこにもない。
ラーレは眉をひそめ、立ちあがった。
「アスラン? どこにいるの?」
「ラーレ、ここだ、こっち、こっち」
よく見ると、道から外れた岩の陰から、アスランの指先がちらちらと動いている。
「どうしてそんなところから…そこからじゃ、上がれないわ」
「いやあ、君の姿が見えたから、近道をしてみたんだけど…やあ」
上から覗き込んだラーレに、アスランは手を挙げて笑って見せた。
「一刻も早く、君の顔が見たくて」
「こんなところから、危ないじゃない」
「いや、少し踏ん張れば、登れそうだ…」
アスランは、岩の小さなくぼみに手足をかけて、力を込める。
「おおっと」
「アスラン!」
足を滑らせたアスランの腕を、ラーレは悲鳴を上げて掴まえる。
「ごめんごめん」
アスランは、もう一度岩に足をかけると、反動をつけて、上がろうとする。ラーレはおろおろしながらも、その腕を掴み、引っ張り上げようと精いっぱい試みた。
「女の子に、助けてもらうなんて、格好悪いな」
「そんなこと、言ってる場合じゃ、ないです」
ラーレは必死になって、アスランを引っ張り上げる。と、その重みが急に軽くなり、二人は勢い余って、草の上に倒れ込んだ。
「…ありがとう、ラーレ」
はあはあと息を切らせ、アスランがラーレのほおに触れる。
「…道なりに来なきゃ、だめよ」
ラーレはふいとそっぽを向いて、立ち上がり、衣に付いた枯れ草を払った。
「そうだね、気をつける」
何が可笑しいのか、アスランも笑って立ちあがる。それから、顔を上げると、その瞳に夕日の落ちていく西の草原を映して、大きく感嘆の声を上げた。
「ここは、見晴らしがいいなあ。こんな高いところから、地面を見下ろしたことなんてないよ」
「そう?」
ラーレは、隣のアスランをまぶしく見上げた。絶え間なく変わっていく夕日の色も、それを反射するようにきらめく、カリヤスも、アスランの前では霞むようだ。
しかし、アスランはそんな視線には気づかぬ様子で、遠くを見つめたまま、尋ねた。
「それはそうと、君はこんな高いところで、何をしてるの?」
「私は…その、染料の草を集めに…」
「ふうん、この草で糸を染めるの? 不思議だね」
「ええ…そうね」
それよりも、こんなところにいる自分を、アスランが見つけたほうが不思議だと思いながら、ラーレはうなずく。
「あの、誰かに私がここにいるってこと聞いたの?」
「聞いてないよ」
「じゃあ、どうして」
アスランは、このひと月の間に、少し伸びすぎた髪を風になびかせながら、ラーレのほうを振り返った。
「どうしてだろうね、わかるんだ」
「…本当?」
「ああ」
ラーレにそう答えながらも、心ここに非ずといった様子で、アスランは遠い地平線を眺めている。
時折吹く、強い風に髪を押さえ、ラーレはアスランの少し後ろに立つと、その視線と同じ、遠くを見つめた。
今、私は、この人と同じ風景を見ている。
黄金に輝くカリヤスと、ごつごつとした、たくさんの岩、それから、その遥か向こうの草地や、雪をかぶった山々。そして、ここからは見えないほど遠くにあるという、人間の住む都。
明日、アスランが帰ってしまうところ。
ラーレは知らず知らずのうちに、自分の心臓をぎゅっとつかむように胸に手を当てた。
この感情を、アスランを忘れて、また元の生活に戻るだなんてことができるんだろうか。
いや、元の生活には戻れない――その答えはすぐに出た。だから、明日からは、以前の生活に戻るのではない。未だ自分の知らない、アスランのいない生活を、新たに始めるのだ。
ラーレの胸は痛んだが、けれど、そうするほかないのだということを知っていた。
小花という役目、それに何より、緑の一族として生まれ、この地から出ることなく、暮らしてきたラーレ。例え、アスランが「一緒に行こう」と言ってくれたとしても、ラーレは、この里以外での暮らしなど、想像もできなかったのだ。
カリヤスで染めた糸を、ぴんと張りつめたような地平線に、いま、夕日が沈んでいく。その優しい色を見つめるラーレを、アスランが、不意に振り返った。
「ねえ、ラーレ…」
アスランの口から、彼が与えた名前がこぼれる。
この名も、アスランがいなくなれば、誰も呼ばなくなってしまうのだ。
ラーレは黙って、アスランを見つめ返した。
すると、アスランもまた、彼女を強くみつめ、こう言った。
「ラーレ、俺とここを出て、都で暮らさないか? 里を離れて、これからは俺と一緒に…」
「アスラン……」
それはラーレが強く望んでいた言葉だった。しかし、それは同時に、叶わぬゆえに、残酷すぎる言葉でもあった。
その優しい眼差しにうなずくことができたら、どんなに幸せだろう。
しかし、ラーレはそれを断らなければならないのだった。
なぜなら、私は、小花だから。里の外の暮らしを知らないから。人間と交わってはいけないから。
しかし、そんなラーレの胸中を知るはずもなく、アスランは彼女の手を握り、熱く語った。
「君を困らせるつもりはない。ただ、俺は君のことが好きなんだ。もし、君を請け負う代償がいるなら、何だってするよ。それがどれほどの金だって――いや、金がいらないなら、何か素晴らしい織物だって、品物だって構わない。俺は、ここを出ても、君と一緒に暮らしたいんだ」
「アスラン…」
「俺は、まだユクセル様の下働きだ。でも、いつかきっと、いろんな国で商いをして、金持ちになって、君に良い暮らしをさせてあげる。王族がまとうような、金刺繍の衣はきっと君に似合うよ。そして、その細い首には、綺麗な石のついた首飾りを。君は世界中で一番美しい、俺の奥さんなるんだ」
そう言われて、ラーレは、自分のいつもの、仕事で少しくたびれたような衣を眺めた。
アスランの言う通り、きっと、都へ行けば良いものがたくさんあるのだろうし、それはとてもいいことなのだろう。
けれど、そんなことより何より、目の前の愛しい人が、他ならぬ自分を求めてくれている。
アスランの言葉は、ラーレの胸を熱く満たした。けれど…。
力強く輝いていた夕日は、いつの間にか沈んでしまい、空の色は、次第に青みを増していく。
ラーレは、アスランに握られた手をそっと振りほどいた。
「私は、行けないわ」
「どうして?」
アスランは目を見開き、首を振った。
「君も、僕と同じ気持ちじゃないのか?」
「そうよ、アスラン、でも、もう決めたことなの」
悲しそうな顔をするアスランから、視線を逸らすようにして、ラーレはうつむいた。それから、縋るように、こう言った。
「…ごめんなさい。だけどこれを私だと思って、都へ持っていってちょうだい。私にはこんなことしかできないから…」
ラーレはてのひらを合わせると、そこから生まれた、ラーレの花の球根を一つ、アスランに差し出した。
「…どうしても、だめかい?」
「…私には、一族を率いる役目があるもの」
深くなっていく夕闇が、自分の顔を隠してくれることに、ラーレは感謝した。
真昼の明るい日差しの中で、アスランに求められたのなら、ラーレはきっとその誘いを断ることができなかっただろう。
しかし、光をなくした空は、ラーレの本当の気持ちも一緒に闇に沈め、アスランにも見つからないようにしてくれるようだった。
「…そうか。仕方ないな」
しばらく黙った後、アスランは、ラーレの手からそっと球根を受け取った。
「ごめんなさい」
ラーレはもう一度消えるような声でそう言うと、カヤリスの入った籠を拾い上げる。
「いいんだ、謝らないでくれ」
アスランはそう言うと、ラーレの球根を仕舞おうと腹巻の中に手を入れる。
そのアスランの指先に、月の輝石の入った革袋が、その存在を主張するようにそっと触れた。