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第二部 第五章 帝国の企み

 南都ギュネイの日差しは、呪いの大樹の日陰で暮らしている者にとってはあまりに強く、厳しいものだった。
 太陽に熱された石畳は靴底が溶けるようだし、全く動く気配のない潮の混じった海際の空気は、ねっとりと肌に絡みつくように重い。

 ネア・クゼイから南都ギュネイまでは、およそ半月ほどの旅路だった。
 それゆえ、アユディスからほとんど身一つで逃れて来たアスラン王子を匿ってから、すぐにネア・クゼイを発つことになってしまったギョクハンの胸中は穏やかでなかった。

 しかし、こればかりは時の運としか言いようがないだろう。アスラン大王の運が尽きるのが先か、それともこちらの運が尽きるのが先か…。

 やっと部屋に通されたギョクハンは、額の汗を拭ってため息をついた。
「しばらく、お待ちください」

 いつもの通訳の商人が、真ん丸な顔に満面の笑みを浮かべてそう言うと、仰々しく礼をしてから退室する。
「お茶を、どうぞ」

 これも顔見知りの、猫のような目をした女が、氷の入ったグラスを涼しげな音をさせて、ギョクハンの目の前に置いた。

「……」
 また、今までのものとは違うようだな。

 ギョクハンは、覚悟を決めて黒光りする小机からその飲みものを取ると、一息つき、グラスの中の液体をおそるおそる口に運んだ。

 しかし、どうやらそこまでこの茶の味を恐れる必要はなかったようだ。
 黒い液体からは想像がつかないほどの、優しい甘さがギョクハンの舌を冷たく潤す。ギョクハンはひとまずほっとして、女に微笑んで見せた。

「…ふむ、これはまた」
 しかし、甘口である、と言おうとした瞬間、遅れてギョクハンの舌全体をしびれるような苦みが襲い、ギョクハンは打って変わって目を白黒させながらその液体を飲み下した。

「アフェリアの南で採れる豆の茶でございます」
 こちらの反応を笑う様子もなく、女が流暢なアナトリアの言葉で言うのを、ギョクハンは顔を少しひきつらせながらうなずいた。

「そうか。趣の異なった茶ですな」
「ありがとうございます」

 女は笑顔で一歩後ろに下がり、今度は床にひざまずくと、大きな鳥の羽を合わせたもので、ギョクハンを扇ぎ始めた。

 扇がれるのは心地よいものだが、どうにも喉が渇いた。こんな妙な茶ではなく、ただの水でも出してくれぬものか。

 そう思いながらも、女の手前、ギョクハンはもう一度グラスに口をつけ、ゆったりと、さもうまそうに飲むふりをすると、せめても椅子に深くもたれて、大きなため息をついた。

 ここ、南都ギュネイには各地から様々な珍しい品物が集まってくる。それがこの商業都市の魅力であり、ほかでもないギョクハンが高い入地料を払ってこの地を訪れたきっかけも、初めは病気に苦しむ我が子、イリヤの貴重な薬を求めてのことではあった。

 しかし、ふとしたきっかけで、この商館である人と会うようになって以来、毎度毎度出される奇妙な飲み物の数々に、ギョクハンは本当に辟易していた。

 しかし、こう言っては何だが、今回の豆の茶などまだ飲み下せるだけましなほうだ。前回の薄茶色の茶は、馬糞を濾したのではないかとないかと思うほどの異臭がしたからな。

 ギョクハンは苦々しい思い出に顔をしかめると、再びため息をついて、遠くを眺めるように目を細めた。

 密会にふさわしいとは思えない大きな窓の向こうには、白い帆を畳んだ商船がひしめき合い、肌の黒い船員たちが大きな荷を港へ降ろしている姿が小さく見える。

 一体中には何が入っているのだろうか。しかし、どの品物にしても、わざわざ船で運んでくる価値のある、大変高価なものには違いない。

 その貴重な荷のすべては、ここギュネイで捌かれ、あるものはオアシスを辿る陸路でアナトリア王国や、その先のクルト山脈を越えた東のハルハへ、そしてあるものはまた別の船に乗せられ、海路で西のグラン帝国や、南のアフェリアへと運ばれていく。

 そのさまざまな国のさまざまな品物の取引は、すべてギュネイの商人たちが取り仕切り、そこで生まれる莫大な利益を使って、ギュネイは周辺国と深い関係を築いていた。

 その甲斐あって、ギュネイは一つの国のような都市として、独自の規律を持つことを認められ、例え国王や皇帝でもギュネイに手を出すことはできなかった。

 そのため、ギュネイには各国の商館が建ち並び、その商館は身分の高い者たちがこぞって貴重な品を入手するための場となった。

 しかし、商人のためにあると言っても過言ではないこの都市への入地料は、少し貧しい土地の領主などはそう何度も訪れることができぬほどに高く、かといって金を払わずに入ろうとする者には、商人たちが揃えた精鋭兵たちにつまみだされるか、それとも運が悪ければ殺されてしまうことすらあった。

 そこで、ギュネイに魅了された人々の中には、この地の永住権を高額で買い取り、手を伸ばせば何もかもが揃う、素晴らしい生活を手に入れる者さえ存在した。

 しかし、ネア・クゼイの貧しい領主であるギョクハンには、永住権どころか、入地料すら、そう何度も払うことなど困難である。

 そんな空っ風が吹き抜けるような懐事情にも関わらず、ギョクハンが何度もギュネイを訪れ、イリヤの貴重で高価な薬を手に入れることができるのは、ここで出会った異国の者のおかげであった。

 ギョクハンは鳥の羽で風を送る女に、もっと扇ぐように目顔で合図した。

 今日はどうにも、我慢がならないくらい暑い。
 一張羅の、黒に金の刺繍をした服の襟を、ギョクハンは無意識にはだけようとして、ぐっとこらえた。

 この滴り落ちる汗は、暑さだけのせいではない。きっとこれから起こることへの緊張なのだろう。

 ギョクハンは、窓から目を離すと、木で編まれた椅子の網目を神経質になぞった。

 今日、ここで起こることが、自分、いや、アナトリアの歴史を変えるのだ。

 あまりに不相応な予感に、ギョクハンが身震いした時、部屋の扉が開き、先ほどの丸顔の商人が顔を出した。

「ギョクハン様、お待たせしました」
「いや、それほどでも…」

 ギョクハンが言い切らぬうちに、媚びたような笑顔を浮かべる商人の後ろから、耳まで垂れた縮れ毛の男が無愛想にぬっと顔を出す。

「バケーロ将軍様は、到着が遅れ、申し訳ありません、とおっしゃっています」

 管楽器が音を鳴らすような異国の言葉を、商人がすかさずアナトリアの言葉に直して、ギョクハンに伝える。

 このグラン帝国の将軍だというバケーロは、簡単なアナトリアの言葉ならともかく、複雑な話をすることはできないらしく、この場にはいつも、毎回同じ通訳の商人が同席するのが常だった。

 バケーロの後ろからは、これも常にこの場に居合わせる、将軍副官と紹介されたイアゴが入ってくる。

「いえ、私もくつろいでおりましたゆえ…」
 ギョクハンは心にもないことを言うと、つくり笑顔で手を合わせた。

「ここから見える景色を、堪能していたところです」
「そうですか、それはよかった、と」
 バケーロがにこりともせずに答えた言葉を、二人の間に入った商人が笑顔を崩すことなく通訳をする。

 まったく、本当にそんなことを言っているのだろうか?

 いつものことではあるが、バケーロと、その言葉を通訳する商人との表情のあまりの違いに、ギョクハンは不安を感じながらも、目の前の椅子にどっかと腰を下ろすバケーロにならって、自分も腰を下ろした。

「まこと、眺めはよいのですが、こんなところを誰かに見られてはあまり…」
 言いかけたギョクハンの言葉を遮るように、小さく手を挙げてバケーロが言った。

「今日が最後なのですから、構うことはありません。それよりも、息子さんの具合はいかがですか?」
「はい?」
「息子さん、イリヤどのの…」

「ああ、ありがとうございます。あの薬のおかげで、最近では外に散歩に出かけることくらいはできるように…」
 ギョクハンは慌ててバケーロに何度もうなずいて見せた。

 イリヤのことを本当に心配してくれているのか、それともこちらへ脅しじみた牽制をかけようとしているのか、バケーロの真偽は計りかねるが、そのどちらにせよ、自分はこうして頭を下げるしかないことを、ギョクハンは知っていた。

「それならよかった。我々の情報とお金が役に立ったようですね」
「はい。重ね重ね、ありがたいことです」

 ギョクハンは深く頭を下げて、できるだけ感謝の意を伝えようと試みる。

 そんなギョクハンのへりくだった様子に、バケーロは口元を歪めた。
「ギョクハンどの、あなたがそんなにかしこまる必要はありません。我々があなたに差し上げたのは、まだお約束の半金なのですし、心臓の薬にしたとて、それはあなたがしてくださることへの当然の対価なのですから」
「ありがたいお言葉です」

 顔を上げたギョクハンの目に、未だ見慣れぬバケーロの青い目が飛び込んで来て、ギョクハンは慌てて目を逸らすように膝の上に握った自分のこぶしに視線を落とした。

 ギョクハンがギュネイに何度も足を運び、イリヤのために貴重で高価な薬を買うことができるのも、すべてはバケーロのおかげだった。

 いや、バケーロの、というよりは、この男の持つ金貨の力だろう。

 ギョクハンは色のかすれた一張羅の裾を隠すように、膝の上のこぶしを移動させた。

 金貨が無ければ何もできぬ。食うものも、衣服も、住まいも、そしてイリヤの命さえ、金貨が無ければ何も手に入らぬのだ。

 もし、ギョクハンの手に十分な量の金貨があったのなら、この異国の将軍からの恐ろしい誘いなどに乗らなかったかもしれない。

 しかし、現実にはギョクハンの手には金貨はない。

 そして、この金貨を持った異国人の将軍は、ギョクハンが自分の要求を飲めば金貨や薬だけでなく、すべての事が終わったあかつきには、このギュネイの永住権すら与えてくれると言う。

 それでも、ギョクハンも二つ返事でバケーロにうなずいたわけではなかった。

 いくら金貨を積まれたとて、アナトリア王国の領主が、海を挟んで西に位置する、グラン帝国の将軍と密会を重ねるなど、自分の首が飛びかねない、重い罪だからだ。

 しかし、その罪を重々承知していながらも、最後にはギョクハンは、バケーロの差し出す美しい金貨を、その懐に仕舞った。

 ほかでもない、イリヤの命のためだ。

 ギョクハンはそう自分に言い聞かせた。
 イリヤの命のため、私はどんなに面白くなくても、この異国の将軍の言う通りに行動し、金貨を、そしてギュネイの永住権を手に入れなければならない。

 自分には強すぎるギュネイの日差しも、イリヤの日光浴にはちょうどよいものだろう。

 言葉が通じないことをいいことに、私を小馬鹿にするようなバケーロの青い目は、正直反吐が出る。しかし、あんな日の射さぬ、湿っぽい土地からイリヤを脱出させるため、私はその目にも耐え、バケーロに媚びへつらってついていくのだ。

 やっと顔を上げたギョクハンを、バケーロは楽しげに見下ろすと、自分の前に出されたあの苦い茶の入ったグラスを手に取る。

「なかなか、不思議な茶でありますよ」
 ギョクハンは内心の溜飲を下げるように、茶を一口啜ったバケーロの表情を見たが、バケーロはちらりとこちらを見ただけで、特に茶の味に感じるところはないようであった。

 この男は、味盲か?

 ギョクハンは流れ落ちる汗を手で拭って、心の中で毒づいた。
 それとも、グランの者は総じて鈍感にできているのだろうか。

 グラン帝国もアナトリアとほとんど変わらない気候だと聞くのに、目の前のバケーロはよく見れば、この暑さだというのに、汗一つかいている様子はない。
 しかし、ギョクハンの勘繰りに気付く風もなく、バケーロは長い脚を組みかえるとふと思いついたように言った。

「ところで、獅子王様の情勢はいかがですかな?」
「はい、ええと…」
「どうやらクルト山脈側の領主たちは、皆、ハルハについたようですが」

 ギョクハンの嘘を牽制するように、バケーロは最新の戦況を口にする。ギョクハンはむっとしながらも、それを表には出さずに正直に答える。

「…ええ、その通りです。しかし数で言えば、未だアスラン大王の軍がハルハのそれを圧倒しております」

「獅子は龍を喰らうか…」
 ハルハの龍王の力量を測るように、バケーロは一時宙をにらんだ。

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黒澤伊織@小説
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