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第一部 第九章 ジャンの誘い

「一人でニヤニヤしやがって、すべてがうまく行っているとでも言いたげだな、アスラン?」

「誰だ?」
 突然、入り込んできた人影に、アスランは飛び起きた。そして、その侵入者の顔を見て、改めて驚き、声を上げた。

「ジャン……様」
「フン、商いの権利を得た途端、お前は俺と対等になったっていうわけか?」

 思わず、ジャンを名前で呼んだアスランに、彼はむっとしたように、背後のヤウズとルザに目線をやった。

「それが、恩人に対する、口のきき方か? いままでは、若旦那様若旦那様と、へこへこしてたっていうのに?」

「恩人ですって?」
 その言葉に、アスランは思わずこぶしを握った。
「俺を迷いの森に捨てた挙句、ギュネイで仕入れた品まで奪い、それを自分の手柄にして、それでも恩人だって言うんですか?」

「当たり前だ」
 喰ってかかるアスランを、ジャンは鼻で笑った。

「いいか、よく考えても見ろ。お前は、うちの前に捨てられていた、孤児だったんだぞ。本来なら、ほっとかれて野垂れ死ぬのがせいぜいの運命だ。それがどうだ。お人好しで気まぐれな父上は、お前を拾ってやったばかりか、獅子像の前に捨てられていたお前に、獅子の名を――アスランという名を与え、教育まで与えた。

まったく、不相応だとは思わないか? お前は、俺が迷いの森へ捨てたというが、俺に言わせれば、俺はお前をあるべき環境に戻してやったってだけだ。文句じゃなしに、感謝して欲しいくらいだ」

 アスランを迷いの森に置いてけぼりにしたことを、暗に認め、ジャンは真新しい椅子にふんぞり返った。それから、遠慮のない視線で、新居の内装をじろじろと眺めまわす。
「ずいぶん派手な住まいにしてもらったじゃないか。相当、金がかかったんじゃないのか?」
「ユクセル様のお屋敷にはかないませんが」
「何だって?」
 投げやりに言うアスランに、ジャンは眉をあげ、身を乗り出した。

「ユクセル様の、お屋敷か。つまり、あの屋敷は俺ではなく、あくまで父上の屋敷だと言いたいんだな。まったく、お前のそういうところが、最初から気に食わなかったんだ」

 腹だたしそうにジャンは言うと、土のついた靴を、どんと、テーブルの上に投げ出した。
 その後ろで、ヤウズはにやにやと笑い、ルザはというと、申し訳なさそうにその巨体を縮めている。

「この家は、客人に茶も出さないのか?」
「…すみません、気付かなくて」
 アスランが使用人を呼ぼうとすると、ジャンは、
「まあ、いい。お前が出す茶など、何が入ってるか分からんからな」
 それは、お前のことだろう――アスランは苛立って、席を立ちかけた。

 しかし、ここでジャンを無碍にしては、ユクセルに迷惑がかかるかもしれない。その一心で、アスランはジャンの暴言に甘んじた。すると、あらかた文句を言い終わったのか、ようやくジャンは、本題に入った。

「それで、とうとう王が、例の花を取って来いといったそうじゃないか。ええと、何と言ったか…」
「…ラーレの花です」
「そうそう、ラーレだか何だか知らんが――大層な名だな」
 ジャンは花の名前にすらケチをつけると、大仰に足を組んだ。
「それで? お前はいつ仕入れに行くのだ?」
「それが…」

 また、この話か。
 アスランはうんざりしながらも、できるだけジャンの気に触らないように言った。

「あの球根は、もう手に入らないのです」
「なぜだ? まさか、一つしか生えてなかったわけではないだろう?」
「それがその…」

 アスランは、口ごもる。そんなアスランに、ジャンは片眉を上げ、髭を撫でた。

「何が問題だ? 金か? 金なら、王が支度金をはずんだだろう?」
「いえ、金の問題ではないのです。そうではなく――」
「金の問題ではない? はっ、面白いことを言うな、アスラン」
 ジャンは鼻で笑った。
「お前も父上に商売を学んだだろう? 金さえあれば、何でも手に入る。これが、この世界の理だ。食い物も、水も、身にまとうものも、何でもだ」

「しかし、手に入らないものもあります」
 静かに、感情を押し殺した声で、アスランは答えた。
 たしかに大抵のものは、金で手に入るかもしれない。商人として、アスランもその意見には、概ね賛成だ。

 しかし、目の前で、欲にまみれ、卑しい顔をしたジャンにそう言われると、そうではないと言わなければならない気がした。

 それに、金で買えないものがあるのは、事実だ。
 アスランは心の中で強く思った。

 例えば、あのリウの一族の生活は、まさに金では買えない幸せの中にある。それにあの美しい人…ラーレの心は、言うまでもない。

「人の心など、金では買えないものの一つでしょう」
「ははあ、アスラン、お前」

 すると、何を思ったか、ジャンはにやりと笑い、目を細めてアスランを見た。
「疲れた馬と、お前一人で、どうしてクゼイまで帰ってこれたのか不思議だったが。違うんだな?」
「何がですか」

 ジャンのハイエナのような目つきに、アスランは怯み、目を逸らす。
 しかし、ジャンは逃がすものかというように、アスランにぐいと顔を近付けた。

「お前は、誰か…。そう、あんなところにいるのは遊牧民くらいだろうが、誰かの世話になったんだな? 誰か、そう…女だろう。そしてその娘に恋をした」
「…そんなことは」

 胸の内を、ずばりと言い当てられて、アスランは動揺した。口では違うと言いながら、態度は正直なアスランに、ジャンは大きな笑い声を立てた。

「やはり、そうだ。はっはっは、それで、金で買えないものがある、か」
「何かおかしいですか」

 ラーレと自分との間に通った、美しい感情を穢されたような気がして、アスランは、反論した。

「人の心は、金で動くものではありません」
「人の心、ねえ。美しき愛情は、金で買えないと。お前、そんなことを本気で思っているのか?」
「はい」
「本当に馬鹿だな、お前は」

 ジャンはそう言うと、ヤウズと、ルザを振り返った。
「例えば、俺の護衛をするこいつらだ。俺はこいつらの力を、金で買っている。つまりは金こそが、俺を守ってくれているというわけだ」

 突然、自分を例に出され、ルザは目を白黒させた。

「俺はこいつらに、一日に一つ、銀を払っている。旅商の護衛のときは、もっとだ。金を支払わなければ、こいつらは俺から離れ、他の者のところへ行ってしまうだろう。人間なんてのは、そんなもんだ。もちろん、女もな」

「そんなことはありません」
 アスランは声を上げて反論する。しかし、そんなアスランを、ジャンは笑った。

「それはお前、金をケチったからだろう。ついていく男を選ぶってのは、我が身を売る女にとっちゃ一生に一度の取引だ。十分な金が得られないと知って、ついてくる女はいないだろうよ」

 ラーレは、金で動かされるような人じゃない。
 そう言い返せたら、どんなにいいだろう。リウの一族が、どれほど静けさを愛し、金を必要としていないか、話すことができたら、どんなに楽だろう。
 しかし、リウの一族のことだけは、決して明かすわけにはいかない。特に、この卑劣な男には。

 ぐっと言葉を飲み込んだアスランに、何を勘違いしたのか、ジャンは勝ち誇り、高らかに笑った。そして、改めて、ずいと身を乗り出した。

「そこで、その球根の話に戻るわけだ」
「球根なら…」

 言いかけるアスランを、ジャンは遮った。
「手に入らないというのか? 馬鹿を言うな。さっきも言っただろう? この世に、金で手に入らないものなどない。王の玉座でさえ、軍隊を買い、他国を抱き込めば、一瞬で手に入れられる。一人の女の心など、玉座よりは安いだろう?」

 何が可笑しいのか、ジャンは笑って続けた。
「アスラン、俺と手を組め。そうすれば、必要な金も、半々で済むじゃないか。いいや、お前の分の支度など、この俺がしてやろうじゃないか。お前は、俺たちの金を使って、その場所へ案内するだけでいいんだ。どうだ、悪い話ではあるまい?」

「できません」
 アスランは、首を振った。しかし、ジャンはまるで気に留めない様子で、

「まあ、そう言うな。あの、ラーレの花ってやつは、王のお気に入りなんだ。それを持って帰れば、お前は生涯安泰、いや、玄孫の代まで安泰というくらいの金が手に入る。それには、まず、王の庭を埋め尽くすほどの球根が必要だ。そして、その庭にあの美しい花が咲き乱れたら、次は金持ち連中に、それを売りつける。

 もちろん、一度に売るんじゃなく、小出しにするんだ。そうしないと、価値が下がっちまうからな。おい、アスラン、想像してみろよ、このクゼイが花の都となる様を。そして、その花よりも美しい、うずたかく積まれた金の山を」

「どれだけ金が儲かろうが、もうあの球根は手に入らないのです。それに――」

 好き勝手な話をされ、アスランは、もう限界だった。

 ジャンが何だ、ユクセル様が何だ、俺は王に認められた、一人前の商人なんだ。だから、誰の指図も受けず、自分の考えで商いをしていいんだ。

 思い切ったアスランは、遠慮なくジャンを睨みつけて言った。

「球根を仕入れるにしても、俺は決してお前となんか手を組まない!」
「何だと…」
「若旦那様!」

 興奮したジャンが、アスランに殴りかかろうとする。それを、ルザが懸命に止めた。

「恩をあだで返すとはこのことだな! ルザ、離せ!」
 ジャンは力いっぱいルザを振りほどくと、思い切りアスランを睨みつけながら、乱れた服を正した。

「いつまでもちやほやされると思うなよ。あの球根がなけりゃ、お前は終わりだ。そもそも、お前の目利きなんて大したことないんだからな」

 そう言うと、ジャンは突如、何かを叩きつけるように、アスランへ向かって投げつけた。そして、とっさにそれを避けた彼に、

「ほら、これを返してやるよ! 父上も、この品には困惑しておられたぞ」
 そう言い捨てると、足をふみならしながら、部屋を出ていく。

「二度と来るな!」
 その背中に、怒鳴るようにアスランは叫び、いかりに顔を真っ赤にしたまま、部屋へ戻った。

 絶対に、あいつらの思い通りになんかなるものか。

 腹だたしい気持ちで、再び、長椅子の上に身を投げる。と、そのアスランの足に、カランと音を立て、何かが触れた音がした。

「何だ?」
 苛立ちながらも、アスランは椅子の下を覗く。そして、そこに転がったものを見つけると、さっきまでの怒りを忘れて息を飲んだ。

「さっき、ジャンが投げたのは、こいつだったのか…」
 思い切り投げつけられたせいで、少々へこんではいる。しかし、ユクセルも困惑したというその品は、あの月の輝石の光が見えるという、黄金の筒にほかならなかった。

「あいつが持ってたのか…」
 懐かしいものを見つけたように、アスランはそっと手を伸ばし、黄金の筒を拾い上げた。その表面に描かれた、繊細な月の絵をなぞる。

 あの迷いの森に、道しるべのように置いてきた、月の輝石。その石は、月の光を吸い込み、いま、輝いているだろうか。

 その、てのひらの中の、ひんやりとした感触にうながされるように、アスランは黄金の筒を、はるか迷いの森の方向へ向け、中を覗き込んだ。

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黒澤伊織@小説
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