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第一部 第十章 夢

 アスランの夢を見るのは、久しぶりだった。

 夢の中でアスランは、あの日のようにラーレの手を握り、瞳をじっと見つめ、こう言うのだ。
 ここを出て、一緒に行こう、と。

 その言葉に、ラーレの胸はいっぱいになる。そして、その感情の溢れるままに、アスランにこう答える。
 ええ、あなたと一緒なら、どこにでも、と。

 その瞬間、リウの一族のこと、タイファのこと、サイファである自分のこと――それらのことが頭をよぎるが、アスランの前では、それは瑣末な事柄として、ラーレを引き留めることはない。

 私は、アスランについてゆく。

 夢を見た日、ラーレはそんな幸福な感覚に包まれながら、目を覚ます。
 しかし、今朝の夢はいつもと違った。幸福に包まれる心とは裏腹に、夢の中で、ラーレは、なぜか泣いていたのだ。ぽたぽたと、涙をこぼしながら。

 その涙の冷たさで、ラーレはその朝、目を覚ました。そして、そっとその頬に触れると、そこには涙のしずくが一つ、夢の中と同じに伝っていた。
 アスランの夢で、涙をこぼすなんて。そんなにアスランが懐かしいのかしら。

 リウたちが、まだすやすやと寝息を立てている中、ラーレは乱れた髪を手櫛でとかすと、寝床からそっと起きだした。

 足音をたてないように注意して、静かに、まだ暗い外へ出る。すると、もう寒いほどの空気がラーレの身体を包み込んだ。

 アスランが去り、季節は巡り、高い山々の頂には、一点の穢れもない雪が積もっている。まもなく、このあたりも銀色の霜に覆われる。
 里に咲いていた花たちも、いまは枯れ、地面の下でじっと春を待っている。

 今日は何をしようかしら。

 当てもなく歩きながら、ラーレは考えた。
 そろそろ紅色の染料となる実も落ちて、なくなってしまうころだ。それなら、その実を集めて、最後の糸を染め、カルに紅の模様を織り込むのもいいだろう。冬が来れば、家の中で仕事をしなくてはならないし、糸はいくらあっても足りないのだから。

 考えこみながら歩いていたラーレは、ふとそこで足を止めた。
 気がつけば、そこは里の入口、アスランと初めて会った場所だった。
 ああ、ここのラーレの花も、今は大地の中で眠っているのね。

 ラーレはぼんやりと、目の前の迷いの森を見つめた。

 あの日、アスランが出て来た迷いの森は、どんな季節にも葉を落とさずに、濃い緑を茂らせている。

 あの人の夢を見たからかしら。

 アスランのことを思い出すと、まだ心は痛む。けれど、あの時の引き裂かれるような胸の痛みは、薄れていっているような気もしていた。
 いつかは傷跡も残すことなく、きっとこのまま、癒えていくのだと思わせるくらい。

 ラーレはため息をつき、花の枯れて寂しくなった草地を見渡すと、考え込むようにそこを見つめた。それから、しゃがみこんで小さな手を広げると、そっとその手を地面に滑らせた。

 すると、どうだろう。
 眠っていたはずの土の中の球根は、ラーレの力で一斉に目を覚まし、色とりどりのラーレの花が、まるで美しいカルのように辺り一面に咲き誇った。

「…あのころの、景色が見たかったの。ごめんなさいね」
 ラーレはつぶやくと、彼女の周囲だけ、季節が変わったような景色に微笑んだ。

 その景色は、アスランと出会ったときのものだった。
 アスランと初めて会ったとき、そのとき、ラーレはそうして、花の中に佇んでいたのだ。そして、何かの気配を感じて振り向き、今にも倒れそうなアスランと目が合った。

 そう、こうして何気なく、森を振り返ったときに――。

 まるでそのときを再現するように、ラーレは振り返った。そして、次の瞬間、あまりの驚きに、目を見開き、口を両手で押さえて、そこに立つ人を見つめた。

 夢でしか会えないはずの人。そこにいるはずのない人。その人が、初めて会った時と同じ場所に立っている。

 そして、その隣には、長い飾り毛をなびかせたあの馬が、何もかもあの時と同じように――。

 ラーレは目を見開いたまま、ゆっくりと息をついた。

 もし、これが夢ならば、その人に声を掛け、触れてしまえば、霧のように消えてしまうかもしれないと思ったのだ。

 立ちすくむラーレに、しかし、その人は馬を置き、一歩ずつ彼女に近づく。
 その歩みに釣られるように、ラーレも一歩、小さく歩を進める。
 そして、とうとう、二人はごく近い距離で見つめ合った。

「…ラーレ、会いたかった」
 その人の口が開き、懐かしい声がラーレの心に慈雨のように染み込む。

「ああ…」
 ラーレは震える手を伸ばすと、その人の肩に触れた。
「…アスラン、アスランなのね!」
「すまない、ラーレ。君にどうしても会いたくて。本当はダメだって分かってたんだけど――」
「ああ、アスラン…」

 アスランが何か言うのを構わずに、ラーレはその胸に顔を埋め、ぽろぽろと涙をこぼした。

「ラーレ…」
 アスランが呼ぶその名を、ラーレの心は貪欲に求めた。
 もっと、もっと、その名を呼んで欲しい。あなたがつけた、私の名を。

 ラーレのふさがったはずの心の傷からは、今、おびただしい量の血が流れ出し、その熱い奔流に、ラーレの心は己を見失いそうだった。

 忘れられる。そう信じていた。けれど、それは嘘だった。

 ラーレは強くアスランを抱きしめた。
 忘れられたと思っていた気持ちは、ただ窮屈に押し込められていただけで、消滅してなどいなかった。ラーレはそれを思い知ったのだ。

 しばらく泣き続けたあと、ラーレはやっと離れてアスランの顔を見上げた。
「…ごめんなさい、驚いてしまって」
「いいよ。喜んでくれて、嬉しい」

 アスランは、ラーレの頬の涙を指先で拭い、その瞳を見つめた。
「君は変わらないな」
「アスランだって…いいえ、あなたは少し、太ったかしら?」
「そうかもしれない」

 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑う。それから、アスランは真顔に戻って言った。

「ごめん。もう二度と来ないって約束、破ってしまって」
「いいえ、いいの。でも」
 ラーレはもう一度アスランを抱きしめて、尋ねた。
「どうやってここまで来たの? 迷いの森を抜けるなんて、人間には無理でしょう?」
「実は…」

 アスランは照れくさそうに笑うと、懐から月の絵の彫られた、黄金の筒を出した。

「これを覗いてごらん」
「これを? ……まあ」

 促され、黄金の筒から迷いの森を覗き見たラーレは、驚いて声を上げた。
 そこには、迷いの森から、天へと真っすぐと上っていくような、不思議な光が見て取れた。そして、その光は、まるでリウの里への道しるべのように続いていたのだ。

「これは、どういうことなの?」
 筒から目を離すと、嘘のように消えてしまうその光を、ラーレは不思議がって何度も覗きこんだ。

「あの光は、月の輝石の光なんだ。仕入れに行った先で、偶然手に入れた品で…。その輝石を、この前ここからの帰り道に落としておいたんだよ。でも安心してくれ」

 一瞬、顔に不安を浮かべたラーレに、アスランは慌てて付け足した。
「この黄金の筒がなければ、あの光は誰にも見えない。…つまり、俺のほかには、誰もここに来ることはできないから」
「そうなの、よかったわ」

 ラーレはほっとして、その筒をアスランへ返す。そんなラーレを、アスランは愛おしそうに、もう一度強く抱きしめた。

「ラーレ、会えてよかった。あれから、君のことを思い出さない日は、一日もなかったんだ」
「私もよ」

 ラーレは、アスランの胸に顔を埋めた。

 この愛しい匂い、愛しい温もり。
 こうして抱き合っていると、ラーレの体は、まるでアスランの一部のようだった。そして、その体の一部と離れることなど、ラーレにはもうできそうもなかった。

「…ねえ、アスラン」
 ラーレはアスランにしっかりと抱きついたまま、はっきりと言った。
「私はサイファで、次のタイファにならなければと思ってた。けれど、私、あなたと一緒に行きたいの。アスラン、もう二度と、あなたと離れることなんてできない」

 ラーレの言葉を聞いて、アスラン驚いたように言った。
「ラーレ、本当かい?」
「ええ、本当よ」
「やった!」

 アスランは嬉しそうにラーレを軽々と持ち上げると、そのまま踊るようにくるくると回り、花の中に倒れ込んだ。

「目が回るわ」
 そう言って笑ったラーレの長い髪が、仰向けで転がったアスランの顔にかかる。
「…ラーレ、好きだよ」
 アスランが真剣な声で言う。
「私もよ」

 ラーレはそっと目を閉じると、アスランのくちびるに自分のものを重ねた。

 その瞬間、ラーレの心は幸福に満たされ、同時に、自分の鼓動とアスランの鼓動がぴったりと一つに重なって脈打ったのがわかった。

 今や二人の肉体は別々ではない。ラーレとアスランの体は一つになり、二人の血は混じり合った、新たな血液となって、熱く肉体を満たした。

 それは新たな命の誕生と言っても過言ではないほどの感動だった。
 ラーレとアスランの心は一つになり、瞬間、新しい一つの命として生まれ変わったのだ。

 これが、タイファ様の言っていた、心を結ぶということなのだ。

 ラーレは目もくらむような幸せの中で、はっきりとそう感じた。
 このくちづけで、ラーレとアスランの心は結ばれ、アスランは人間よりも長い、リウの一族と同じ時を、一生共に過ごすことができるようになったのだ。

 満ち足りた気持ちの中で、ラーレはくちびるをそっと離すと、アスランに小さく尋ねた。

「…今度は、いつ出発するの?」
「君に合わせるよ。皆に話もしたいだろう?」
「そうね」
 アスランの上に折り重なるようにして、ラーレはつぶやいた。
「まだ皆眠っているわ。起きたら、一緒にタイファ様のところに行きましょう。そしてお許しをもらって…」
「そうしよう。でもその前に」

 アスランは、ラーレを花の上に降ろし、体を起こしていった。
「その前に、実はお願いがあるんだ」
「なにかしら」

 アスランに寄り添い、ラーレは聞き返す。そのラーレの視線を、少し避けるようにして、アスランは言った。

「その、ラーレの花の球根を、分けてもらえないかなって。少し…そうだな、十もあれば…」
「なんだ、そんなこと?」

 仰々しく言うアスランに、ラーレはころころと声を立てて笑った。

「アスランはこの花が好きなのね。いいわ、ラーレの花なら、私が毎日咲かせてあげる。そう、おうちの周りを囲むように花畑を作ったらどうかしら? いつでもこの森を思い出せるように」

 笑顔でそう言ったラーレに、アスランは少し考えるようにして言った。

「そうだね、そうしよう。でも、そのほかにも、少し分けてあげたいんだ、ほら、俺の友人や何かに…」
「そうなの?」

 気まずそうなアスランを不思議に思いながらも、ラーレはうなずいた。

「それなら、お友達の分も咲かせてあげるわ。それでいいでしょう?」
「うん、そうだね」

 アスランは、どことなくぎこちなく笑い、ラーレの髪に触れる。しかし、幸せに包まれたラーレは、そんなことなど気にもせず、再びアスランの胸に顔を伏せた。

「ああ、アスラン、本当に夢みたいだわ…」

 と、そのときだった。馬のあぶみがかちゃりと鳴り、飾り毛のある馬の足が、ラーレの目に映った。

「あら、ごめんなさい、マク。私ったらあなたに挨拶もせずに…」
「残念ながら、俺はマクじゃないな」

「誰だ!」
 唐突な男の声に、アスランは驚いて素早く飛び起きた。瞬間、その鼻先に、ぎらりと光る長剣が突き付けられる。その鈍い光に、アスランは地面に膝をついたまま、動きを止めた。

「誰だ、とは、ご挨拶だな、アスラン」

 馬上の男がにやりと笑い、アスランはその男に向かって、ぎりと歯を食いしばり、その名を呼んだ。

「ジャン…」

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黒澤伊織@小説
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