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第一部 第四章 大花の願い


「あ、俺も何かしましょうか? その…」

 わっと蜘蛛の子を散らすように、それぞれの仕事を始めた緑たちを眺めながら、アスランは大花におそるおそる申し出た。

「いいえ。あなたはお客ですから、いいのですよ。ゆっくりして、疲れを癒されたら、故郷にお帰りになるといいでしょう。帰り道は、そのときにお伝えしましょうね」

「いや、そうではなくて……」
 大花の優しい眼差しに、アスランは言い淀んだ。

 倒れたアスランに部屋をあてがい、介抱し、マクの世話をし、朝食まで振る舞ってくれる、緑の一族。その恩に報いたいのはやまやまだが、いまのアスランにはその手段がない。何せ、金銀は一つ残らず、ジャンに奪われてしまったのだ。

 俺に金がないと知ったら、いまは優しい大花様とやらも、どうなることか。最悪、再びマクと共に、迷いの森に放り出されてしまうかもしれない。しかし、いずれは知られてしまうこと、いま言うも、あとで打ち明けるも同じことだ。それに、いざとなれば、アスランには秘策があった。

「あの…これは、とても言いにくいことなのですか」
 アスランは、意を決して切り出した。
「俺、実は、金になるものを何も持ってないんです。本当に、財産になるものといったら、マク…あの馬くらいで」

「ええ」
 何を考えているのか、大花の表情からは、アスランの求める答えを、読み取れない。やはり、あれを言うしかないか――アスランは一つ息を吸ってから、ゆっくりと噛み締めるように言った。

「そこで、なんですが。俺、都で商売をやっているんです。少し見させてもらいましたが、ここのカルという絨毯は素晴らしい。何千と織物を見てきた俺が言うんだから、間違いないです。それに、あのクリュという野菜も、他にはない、おいしいものです」

 里の物を褒め千切られ、大花は嬉しそうに微笑んでいる。アスランはここぞとばかりに、心をこめて言った。

「そこで提案なんですが、俺にここの品物を任せてもらえませんか? そしたら、都ですべて売りさばいて、見たこともないほどたくさんの金にしてお返しします。ここの子たちが、大人になるまで遊んで暮らせるくらいの金に、ね。もちろん、これは俺がお世話になったお礼ですから、手数料なんかとらずに、もうそっくりそのまま…」

「御客人」
 大花は、その皺だらけの顔に微笑みを宿したまま、やんわりとアスランの言葉を遮った。
「あなたが、私たちのことを思って言ってくださっているのはよくわかります。けれど…」

「何でしょう」

 何か悪いことを言っただろうか? 首をすくめるアスランに、大花はしっかりと背すじを伸ばして座ったまま、静かな口調で言った。

「ここでの暮らしは、一つの金にも頼っておりません。私たちは毎日、薪を集め、糸をつむぎ、染め、編み、飯をつくり、植物の世話をして暮らしております。私たちに必要なものは、すべて天が恵み、大地が育んでくれています。私たちはここで生きているのではなく、生かされているのです。ですから、金などあっても仕方がないのです」

「…植物を操る能力があれば、他の人々に頼ることはないということでしょうか」

 思わず、アスランはそう尋ねた。その瞬間、しまったと口を塞いだが、意外にも、大花は表情を崩すことなく、言った。

「そうですか。あなたはご覧になってしまったのですね」

「はい」
 アスランは覚悟を決めて、うなずいた。
「もしかして、あなた方は人間ではないのですか? 植物を操る力など、俺は聞いたこともありません」

「私たちが何者かなんてことは、どうでもいいことです」
 大花は穏やかな笑みを浮かべたまま、言った。しかしその瞳は、真面目な光を宿している。

「けれど、知られてしまったものは仕方がありません。都にお帰りになられても、この里のことは、誰にもお話にならないでください。そして、二度とここへ訪れようとはなさらないで下さい。それだけで、私たちは良いのです」

「…もし、俺が誰かに話してしまったら?」

「そうですね」
 すると、大花は穏やかに首をかしげた。

「実際のところ、あなたが再びこの地を訪れることはできないでしょう。今回のことは、きっとあなたたちを不憫に思った、神様のお導きだったのでしょうから。普段、私たちが住むこの地は、迷いの森に守られています。だから、誰かがここに訪れようとしても、森がそれを阻むのです。ですから、他言無用だと言いましても、それは、私からの、ただのお願いなのです。何の罰も報復もない、ただの約束をして欲しいだけなのです」

「…わかりました」
 アスランは、自分の口から出た素直な音色に驚いた。

 不思議と、母親に諭された幼子のように、アスランの心に大花の言葉は響いていた。
 緑の一族、といったか、この里の人たちは素朴な生活をし、そしてその生活を存分に楽しんでいる。
 そしてそれは、都のユクセルがしているような豪奢な生活とは正反対のものだった。

 ほんの数日前まで、ユクセルのような生活がしたいと思っていたにも関わらず、アスランはいま、この静かで、清貧とでも言うべきこの里の生活に、心惹かれていた。
 この里の風景と、清らかな緑の一族の心は、アスランの金にまみれた心を清め、美しく変えていくようであったのだ。

「それでは、お好きなようにお過ごしください。また夕餉の頃に、緑をやりますので」
 そう言い残すと、大花は家の奥へと消えていく。

 残されたアスランは、ふらりと外へ出て、丘の小道を下った。里の景色は、やはり美しく、アスランは心ゆくまでそれを眺めた。

 それから、どれくらい経っただろう。ブルル、マクの声と、あの少女の気配を感じて、アスランの足は、自然とそちらに向かった。

「やあ、どうも」
 連れ立った一人と一頭に、アスランが声をかける。すると、少女は小さく微笑み、彼を振り向いた。

「こんにちは。いま、この子の、毛並みを梳いてやってるところなんです」
「初めてにしては、馬の扱いに慣れていますね」
「いえ、そんなこと…」

 少女は恥ずかしげに顔を背けて、熱心に飾り毛を梳かす。

「それに、腹もいっぱいにしてもらったみたいだ」
 アスランの言葉に同意するように、マクは満足げに小さな目を瞬かせる。

 束の間、静かな沈黙が流れた。
 この少女といると、アスランの調子は狂ってしまい、いつものように話せなくなる。

「そういえば、あの花…」
 アスランはふと思い出して言った。

 初めてこの少女と出会ったときに、辺り一面に咲いていた、見たことのない色とりどりの花。
「あの花の名前は、何て言うんだい?」
 普段通りであることを意識して、アスランは少女に訊ねた。

「花…ああ、ラーレのことですね」
「ラーレ…」
「はい」
 少女は、初めて見せる笑顔で言った。
「私が世話をしているんです」

「そうなんだ」
 輝くような、少女の笑顔にどぎまぎしながら、アスランは答えた。
「綺麗な、花だね」
「ええ」

 綺麗、という言葉が、目の前の少女を褒めたようで、アスランは一人で慌てた。
「ここの人たちは…緑の人たちは、どうして名前がないの? その…君の名前を、他の子と同じに呼ぶのって、俺は変な感じで…」

「そうですか?」
 また不思議そうに、少女は首をかしげる。

「だって君は特別だから…」
 つづけて、口から飛び出した言葉に、アスランは顔を赤くした。

 俺は、何を言ってるんだ。

 さらに慌てるアスランに、少女はその言葉の意味がわからないかのように首を振った。

「そんなはずありません。私たちは、大花様から生まれた、同じ緑ですから」
「君たちに父親はいないのかい? その、男の人を見掛けないけれど…」
「いいえ、大花様だけが、私たちの親です」

「いや…」
 きっぱりと言う少女に、アスランは一歩歩み寄った。
「子供っていうのは、その、男と女がこうして…」

 アスランはマクを撫でる少女の手に、自分の手を重ねた。それに驚いた少女が、アスランを間近で見上げる。

 この、人ではないかもしれない少女は、触れたら消えてしまうのではないか――そんな思いとは裏腹に、少女の手は温かく、消えてなくなったりはしなかった。

「君は、綺麗だ」
「…そんな」
 アスランの言葉に、少女の白い頬が紅をさしたように赤くなった。

「いいや、綺麗だ。あの花と同じくらい…」
「…ラーレの花のことですか?」
「うん」

 アスランは重ねた手を、そっと大切なものを守るように握り、少女の体を引き寄せた。

「ラーレ」

 その綺麗な花の名は、目の前で微かにまつげを震わせる、美しい少女にぴったりだった。

「君のこと、ラーレって呼んでもいいかな…」
 少女は何も言わず、潤んだ瞳でアスランを見上げた。それから、アスランの言葉にうなずくように、ゆっくりと目を閉じた。

 それは自然な成り行きだった。

 アスランは目を閉じると、その花びらのように柔らかな少女のくちびるに、そっとくちづけたのだった。

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黒澤伊織@小説
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