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第一部 第十二章 金の髪飾り


「大花様、疲れたの?」
 カルを編む手を止めたラーレに、小さな緑が声をかけた。

「いいえ…」
 静かに微笑むラーレに、緑は少し安心した顔をしてまたカルを編む作業に戻る。

「アスランが来たと思ったんでしょ」
 そんなラーレを茶化すように、別の小さな緑がいたずらっぽく笑う。
「そんなことないわ。ただ…」
「ただ?」

 そこまで言って、ラーレは口を閉じた。
「ううん、何でもないわ」
「大花様…」

 それは何度目のことだろう。緑が、できるだけ明るい口調でラーレに言う。

「私たちはいいから、アスランとどこかへ行っても構わないのよ。大花様がいなくっても、私たち…」
「緑、そんなこと、言わないで」

 ラーレはうつむいたまま、静かに首を振った。
「あなたたちは私の大切な子供たちなのよ。だから、私はあなたたちとずっと一緒。きっといつか、天に帰るその日まで」
「でも」
「いいのよ」

 ラーレは半ば強引にその話題を終わらせると、黙ってカルを編む作業に集中しようとした。

 アスラン。

 その名前は、未だラーレの心をかき乱すようだった。

 あの静かな里から、このクゼイの都に攫われて、どれくらいの時間が経ったのだろう。
 明かりとりの窓が一つだけの、この小さな石牢の中からは、一日の始まりも、終わりも、知ることが叶わない。

 あの日――大花が神様の元へ帰ってしまった日、ラーレと緑たちは、ジャンに引きずられるようにして、都へとやってきた。そして、何も分からないままに、この冷たい牢に閉じ込められ、ラーレの球根を生み出すよう命令されたのだ。

 この都で一番偉い「王」という人間。その王が、球根を欲しているのだ、と。

 しかし、ラーレたちは、その要求に首を振り続けた。
 大花を失った悲しみ、それに、自分たちにひどい仕打ちをした人間の恐ろしさが、皆の心を閉ざしたのだ。

 大花が話して聞かせてくれたことは、すべて本当だった。人間と緑の一族は、これほどまでに進んだ道が違ったのだ。
 ラーレたちは、身体を寄せ合うようにして、何日も何日も、震えて過ごした。

 これから私たちはどうなってしまうんだろう。このまま、この暗い場所に閉じ込められ、一生を過ごすことになるのだろうか。

 日に二度、係の兵士が持ってくる食事にも口をつけず、かといって何も話そうともしないラーレたちに、王は業を煮やした。そして、次なる策に打って出た。それが、ラーレの思い人――アスランを遣わすことだった。

 アスランが、私たちを助けに来てくれた。
 久しぶりの愛しい顔に、何も知らなかったラーレは涙を流して喜んだ。しかし、その喜びは次の瞬間、深い絶望へと変わった。

『王の命令を伝えに来た』
 ラーレと目線も合わさずに、アスランはそう言った。
『球根を、生みだしてくれ。お願いだ』

『どうして? 私は、あなたと…』
 動揺するラーレに、アスランは俯いたまま言った。

『王は、あの花に狂っているんだ。君があの球根を生み出してくれなければ、俺もどうなるか分からない』
『どうなるかわからないって…?』
『あの、大花様を殺してしまったジャンは、その球根を生み出す者を一人減らしたという罪で、斬首された』
『斬首って…』

 自分たちにひどい仕打ちをしたジャンが、王に殺された?
 驚きのあまり足をふらつかせたラーレを、アスランは抱きとめた。

 ラーレの花の球根を、人を殺してまで欲しがるいるなんて。王という人間は、正気ではないのか。

 ラーレはその腕にすがったまま、アスランの顔を見上げた。そうして間近で見れば、アスランの頬はこけ、痩せてしまったようだった。

 王の魔手は、アスランにも及んでいるというのだろうか。
 ラーレはアスランを見上げた。

『…私たちが球根を生み出さなければ、あなたも殺されると言うの?』
『わからない。けど……』

 言い淀むアスランに、ラーレは言葉を飲み込んだ。

 緑の一族であるラーレと、心を結んだアスランは、何をされても死ぬことはない。彼は、ラーレが生きている限り、共に生き続けるという宿命を背負ったのだから。

 あのとき、伝えそびれたその言葉を、ラーレは口にしなかった。
 その代わり、アスランの目を見つめたまま、その心に問いかけた。

『…アスランは、私にどうしてほしい?』
『俺は……』

 アスランは沈黙した。
 その沈黙が、彼の心を物語っているのだろう。

 しばらく後、ラーレはアスランから離れると、以前そうしたように、手の中に一つ、球根を生み出した。そして、彼にそれを差し出した。

『…ねえ、私たちがどれだけ球根を生み出したら、里へ帰してもらえるの?』
『わからない』

 手のひらの上の球根を受け取りながら、アスランはほっとしたような、それでいて苦しそうな声で答えた。

『ごめん、でも、里の生活と同じように…そうだ、ここにカルを編む糸を持って来させるよ。それに、君たちが里で編んでいたカルも』
『アスラン』
『球根を、できるだけたくさん用意してくれると助かる』

 そう言うと、アスランは逃げるように牢から出ていってしまった。

 それから、アスランは定期的にラーレの元を訪れるようになった。そして、その度に、ラーレは生みだした球根を渡し、アスランはカルを編む糸や、部屋を明るくする蝋燭、それに殺風景な壁を飾る、美しい絵画を置いていった。

 その豪華な品々は、いつしか牢を宝物庫のように輝かせた。しかし、ラーレはその輝きに少しの興味も持たなかった。ラーレの願いはただ一つ、里へ戻ること。この土も水もない石造りの牢では、自らが生み出した球根さえ、咲くことはない。

 それでも、里へ買える日を夢見て、冷たい石の床の上で、ラーレはカルを編み続けた。そして、ときおり、アスランのことを考えた。

 牢の外のアスランが、どんな生活をしているのか、ラーレには想像もできなかった。

 順調に生み出される球根のおかげで、王からたくさんの金粒をもらい、豪華な生活をしているのか。それとも、ラーレの事を思っても思いきれずに、涙を流す日々を過ごしているのか。

 ただ、ラーレが知っていることと言えば、アスランは旅商に出かけており、その長い旅の後には、決まって高価そうな品物を土産に持って帰ってくるということだけだった。

 あるときは可愛らしい人形を、あるときは宝石を散りばめた、作り物の花を。しかし、そんな美しい品々も、ラーレは受け取った端から隅へと片付けてしまい、その後は決して手を触れようとはしないのだった。

 アスランは私が欲しいと言ったのに、どうして私はここにいるのかしら。
 ラーレの心は痛んだが、しかし、いざアスランの前に立つと、何も聞けずに押し黙ってしまうのだった。

「…大花様ったら、ねえ」
 思いに沈むラーレに、そのとき、緑の慌てた声が耳に入った。
「ああ、なあに?」
「なあにじゃないよ、大花様。ほら、アスランが来たよ」

 その言葉に顔を上げると、鉄格子の向こうにアスランが立っているのが見えた。

「ね、大花様。今回は、大花様の編んだ袋に球根を入れてあげるんでしょ?」
 ラーレが何とはなしに編んだ、虹の色をした布の袋。そこに球根をいっぱいに詰めた緑が、嬉しそうに彼女を見上げる。

「ああ、そうね…」
 ラーレは緑に微笑むと、押し付けられたその袋を抱えてアスランへ近づいた。

「やあ、元気だった?」
「ええ。あの、これ…」
「球根だね。いつもありがとう」

 私が編んだ袋なの――そう告げる間もなく、アスランはラーレの手から、それを素早く奪った。そして、当たり前のように、扉の向こうの兵士に渡した。

「あ…」
「どうかした?」

 アスランが、にっこりとラーレに笑ってみせる。

 いつからかアスランが身につけた、その面を被ったような笑顔が、ラーレは苦手だった。

「ううん、何でもないの」
 ラーレは急いで首を振る。すると、アスランはその笑顔を張り付けたまま、何かを差し出した。

「これは、君へ。君に似合うと思って…」
「…ありがとう」
「ほら、お礼なんかいいから、中を見て」

 アスランは包装を取り去ると、改めてラーレの手のひらにそれを乗せた。
「綺麗だろ?」

 それは、金の髪飾りだった。
 蝋燭の明かりにきらきら揺れる、黄金の輝き。その眩しい光から顔を背けるようにして、ラーレは礼を言った。

「とても綺麗ね。ありがとう」
「ほら、もっとよく見てよ」

 アスランは髪飾りに埋め込まれた、小さな白い石を指した。

「ここに、石でマクの絵を描いてもらったんだ。君が気に入ると思って」
「まあ、本当ね」

 ラーレは思わず微笑んだ。
 たしかにそこには一頭の馬が駆けていく様子が、光る石を使って描かれている。
 その小さなマクの絵は、愛らしいあの馬を思い出させた。

「ありがとう。大切にするわ」
「うん」

 アスランは、髪飾りをラーレの髪にそっと付けると、ようやく以前のような、自然な笑顔で笑った。
 しかし、すぐに顔を曇らせて呟いた。

「…ごめんな」
 それは、訪ねて来たアスランが必ず最後に言う言葉だった。
 そして、その意味のあると思えない謝罪にラーレが返す言葉も、いつも同じだった。

「…いいえ、私は緑たちと一緒なら幸せだから」
「そうか」

 アスランもまた、いつものようにうなずいて――何を思ったか、足を止め、振り返り、こう言った。

「明日の朝、俺はまた旅商で遠くへ行く。だから、当分は君に会えないけど…。何か、君の好きそうなものを見つけてくるから」
「ええ。…待ってるわ」
「…じゃあ、またね」

 アスランは、ラーレにもう一度うなずくと、暗がりから遠ざかっていく。

 ラーレもまた、いつものようにアスランの後ろ姿を見送ると、輪になってカルを編む緑たちの元へと戻っていった。

 いつもと違うことがあるとすれば、それはアスランの土産を――金の髪飾りを牢の隅に押しやることなく、髪に付けたまま、カルを編み始めたところだろうか。

 しかし、それはただ、髪飾りの存在を忘れていたというだけで、特別、意味のあることではなかった。

 このときは、ラーレも、旅商に出る準備を始めたアスランも、これが二人の最後の逢瀬になるとは、まるで想像もしていなかったのである。

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黒澤伊織@小説
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