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第二部 第一章 誇り高きアナトリアの王子


 それはそう頻繁に起こる出来事ではない。

 しかし、もしも、この辺境の地――ネア・クゼイの地に旅人がやってきたとするのなら。

 その人間はまず、この地に太陽の光が降り注がないことに驚くに違いない。

 それから自然と空を見上げ、今度は、このネア・クゼイの空を覆い尽くす大樹の巨大さに、目を見張るに違いない。

 それから、ようやく旅人は、眼前にそびえたつ大樹が、噂に聞いたものだと理解するのだ。

 栄華を極めた、古代の都クゼイを、一夜にして滅ぼした呪いの大樹。ああ、この大樹がそれなのだと、なるほど、その伝説も眉唾ではないかもしれぬ、と。


 それほどに、この大樹は巨大だった。これが木であるということが、にわかには信じられないほど。

 その幹は山ほどに太く、その枝先は雲を突き抜け、太陽まで届いているのではないかと思わせる。

 これもまた、有り得ない話ではあるが、もし、この大樹が倒れるということがあれば、それは遠く、海をまたいだ隣の大陸まで、橋をかけることになるのではないかというほどだった。


 しかし、それらはすべて、もしもの話。

 このネア・クゼイは、アナトリア王国の都、アユディスから遠く離れた、辺境の地。
 北に面した海は、年中凍りついており、いまや当たり前となった船での往来による発展も、ネア・クゼイには遠く叶わぬ夢。

 それならばと、航路を諦め、陸路で広い砂漠を越えたとしても、古代には要塞都市であったとも言われる、この地を囲む険しい山々のせいで、馬車道は一本きりしかなく、それを丸一日かけて上り下りしなければ辿り着くことができなかった。

 その上、そのくねくねと細い一本道には関所が置かれており、ネア・クゼイの領主、ギョクハンによって目の玉が飛び出るほど高い通行料がかけられていた。そうなれば、人々の往来は自然に途絶え、道はさびれる一方だった。

 人の行き来のないおかげで、ネア・クゼイの住人は畑を耕して自分たちの口にするものをつくるという、大昔から変わらない生活を続けていた。
 しかし、それでもそこに住む人がいるのは、ここでは食べ物に困ることがないからであった。

 太陽は、大樹に遮られ、光は地面に少しも差さない。そんな環境にもかかわらず、畑の作物だけはよく育ち、よく実ったのだ。

 それは年によって極端に凶作になることも、豊作になることもなく、人々に安定した生活をもたらした。

 食べていくのに十分な実りをもたらすネア・クゼイの大地を、ある人はあの大樹のおかげであると言い、またある人は、もともとの大地が豊かなおかげだと言い張った。あの忌まわしい大樹がなければ、この地はもっと豊かなのだ、と。古代、ここにあったという都市は、大樹がなかったからこそ栄えたのだ、と。

 そのどちらの言い分を信じるにしても、人々が飢える心配をしなくてもよいということは、十分に幸せなことであった。そして、その大地を豊かにしているにしろ、そうでないにしろ、この巨大な大樹の姿も、もう誰も疑問に思うことはないくらい大昔から天にそびえ立つものであった。

 いまさら、人々は大樹に何を思うこともない。それはただ昔からあり続け、いまも、未来にも存在する景色の一部なのだ。



 しかし、それはここにいる一人の少年にとっては、未だ珍しい景色だった。

「あの大樹の先は、どこまで続いてるのかな。ねえ、ミネは知ってる?」

 大きな椅子から宙に浮いた足をぶらぶらと揺らし、つまらなそうに外を眺めながら、その少年――アスランは、乳母のミネに尋ねた。

 アナトリア王国の第一王子、アスランがこの呪われた地にやってきたのは、ほんの数ヶ月前のことだった。アナトリアの都、アユディスの宮殿とは、何もかもが違う、ネア・クゼイでの生活。にもかかわらず、彼は毎日に退屈していた。

 彼が仮住まいとしているのは、ネア・クゼイの領主である、義叔父(おじ)のギョクハンの屋敷。

 しかし、その住まいは領主の屋敷とは思えぬほど粗末で、食事もまた、野菜ばかりの貧しいもの。加えて、空は呪いの大樹のせいで、常に薄暗く、鬱々とした気持ちに拍車を掛ける。

 それでも、今までアスランが退屈しなかったのは、ギョクハンの一人息子、三つ年上のイリヤと意気投合したからだった。イリヤは本を読むのが大好きな少年で、そんな彼のする話は、ものを知らないアスランを夢中にさせたのだ。

 しかし、そのイリヤは、生まれつき心臓が悪く、いまは部屋で伏せっている。そのため、アスランはイリヤの部屋を訪ねることを禁じられてしまったのだ。

「大樹がどこまで伸びているかなど、ミネは存じませんよ」
 アスランの問いに、ミネは肩をすくめて答えた。

 野菜しか食べていないというのに、なぜかまるで痩せないミネは、今日も変わらずその太った体で、せかせかと忙しそうに動いている。

 その肉付きのいい背中を目で追いかけるようにしながら、アスランはミネに駄々をこねるように質問を重ねた。

「でもさ、あんなに大きかったら、きっと天まで届いているんじゃない?」
「さあ、どうでしょうねえ」
「それにしても、なぜあんなに大きくなるまで、誰にも切られなかったのかなあ?」
「なぜでしょうねえ」
「ねえ、そもそも、あれは何の樹なの?」
「わかりませんねえ」
「もう、ミネったら! ちゃんと僕のいうこと、聞いてるの?」

 ミネのあんまりにいい加減な答えに、アスランは椅子の上に仁王立ちになって大きな声を出した。

「ええ、ええ、聞いておりますとも」
 アスランの大声にも、ミネは動じることもなく、嘯く。

「それならさ、あの大樹のことをみんなが呪いの大樹だっていうのは、何でなのさ」

 椅子の上で立ったまま、腰に手を当て、アスランはミネを見下ろした。
「ねえ、何でなのって聞いてるじゃないか、ミネ?」
「そうですねえ、遠い昔の人がつけた名ですから。さ、そこから降りませんと、転げて落ちますよ」
「もう、ミネに聞いても何も分からないじゃないか」

 アスランはいよいよふくれたが、言われたとおりに、きちんと椅子に座り直すと、怒ったように窓の外を見た。

「ミネって何にも知らないじゃない。これなら、イリヤのほうがずっとずっと物知りだ」
「小アスラン様」
 ミネはハムのような腰に手を当てると、初めてたしなめるようにアスランを見た。


 アナトリア王国の王であり、アスランの父であるアスラン大王。その大王と比して、アスランの周りの人々は――ミネも、他の付き人たちも、まだまだ小さな子供のアスランに愛情を込めて、「小アスラン様」と、そう呼んだ。
 アスラン、とは古いアナトリアの言葉で、獅子を意味する、強く誇り高い名である。

 もっとも、少し古風な名ではあるが、偉大な父アスラン大王と同じ、アスランという自分の名を、アスランはとても気に入っていた。

「イリヤ様はまだお加減がよくないのですから、お部屋に行ってはいけませんよ。ちゃんとわかっていらっしゃいますか?」
「…誰も、イリヤのところに行くなんて言ってないだろ」

 アスランはふてくされたように、ぷっと頬を膨らます。そのアスランの答えを聞いて、ミネはますます困惑したようにため息をついた。

「本当にいけませんよ。イリヤ様はお体が弱いのですから。小アスラン様も、お部屋で大人しくお勉強でもなさったらいかがですか」
「いやだ。イリヤと話してるほうが、よっぽど面白いし勉強になる」
「ですから、イリヤ様は…」
「だって、イリヤがいなきゃ、こんなとこつまんないよ」
「こんなところだなんて、小アスラン様、そんな言い方はありません。それに、王になる御身が、いつまでもそんなわがままを言われるようでは困ります」

「うるさいな、わかってるよ…」
 アスランは口を尖らせて返事をしてから――黙りこんだ。


 いずれは、小アスラン様もアナトリア王国の王になるのですから――。
 それは事あるごとに、ミネが口にする台詞だった。

 けれど、そう言われるアスランはまだ十で、「王になる」というのがどういうことなのか、あまりよくわからなかったのだ。

 自分が王様になったら、どんなことをするんだろう。
 眠れぬ夜に、アスランは幼い頭で、よくそんな想像をした。

 僕が王様になったなら、きっと父様のように、たくさんの騎馬隊を連れて戦に出かけるんだ。そして、母様が読んでくれる物語に出て来る怪物のような、悪い敵をやっつける。

 それから、やっぱり父様がそうするように、悪い敵の大将の首を刎ねて、その生首を高く掲げる。

 そうしたら、僕の軍勢は大きな勝ちどきを上げる。そして、僕たちは、その勝利のしるしを掲げたまま、みんなでアユディスの宮殿に帰る。

 すると、母様が父様にするように、僕の妃が、僕の子供を連れて、出迎えてくれるだろう。

 そうしたら、僕はその美しい妃を抱きしめて、それから僕の子供にこう言ってあげるんだ。
 父様がいつもそうしてくれるように、僕も僕の子供の頭を撫でながら、『いいか、お前は誇り高きアナトリアの王子なのだぞ』って。

 空のような濃い青に、金色の三日月の描かれたアナトリアの旗。その旗が、まだ見ぬ草原に無数にはためくさまを、アスランは思い描いた。

 数百年続く、アナトリアの王の一人に、僕はいずれ名を連ねる。
 そして僕はその王家の名に恥じぬよう、誇りを持って、強く豊かな国をつくるんだ。
 強く偉大な獅子王、僕の父様のように。

「ねえ、ミネ、僕はすっごく立派な王様になって…あ、痛っ」
 突然、指先に感じた鋭い痛みに、アスランは思わず悲鳴を上げた。

「小アスラン様? どうされました?」
「ミネ、ほらここ、指に棘が…」

 アスランは口をへの字に曲げて、駆けつけたミネを見上げた。

 ささくれ立った窓枠の木片が、アスランの白く柔らかな指に刺さり、小さな赤い玉を作っている。
 それを見たミネは、怒ったように声を荒げた。

「まあ、棘の刺さる窓枠なんて! まったく、早く消毒しないと。悪いものが入ったら大変ですからね」
「でも、父様が戦で傷を負った時はもっと血が出たって母様が言ってた。だから、僕だってこれくらい…」

 血の滲む指から目を背けるようにしながら、アスランは強がる。すると、ミネは至極真面目な顔で言った。

「ええ、そりゃあ小アスラン様はお強い子でございますよ。けれど、大王様だって、お怪我をされたら手当てなさいます。だから――ええと、消毒薬はどこにあったかしら…ああ、これだわ」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、ミネは白い消毒薬をアスランの指先に振りかける。ピリっとした感覚が指先に走り、アスランは顔をしかめた。

「染みるよ、ミネ」
「それくらいは我慢なさって下さい。強い王様は泣かないものですよ。…さ、これでいいですよ」

 ミネは丁寧にガーゼを当てた上に、大げさな包帯を巻き終えると、ポンと一つ、自分の膝を叩いて立ち上がった。

「私の見ているところで、小アスラン様にお怪我などさせられませんからね」
「もう、大丈夫…?」

 アスランは、包帯をした指を怖々と曲げた。そして、痛みが無いのを確認すると、急に元気を取り戻して椅子から飛び降りた。

「ほんとはこんな傷、何でもないんだよ。だって僕、もう少し大きくなったら、父様に戦場に連れてってもらうんだもの。ほら、ミネ、見て!」

 すらりと腰の剣を抜き、斜めに構えるアスランに、ミネは慌てたように後ずさった。

「おやめください、こんなお部屋の中で。またお怪我したいんですか?」
「大丈夫だよ。ミネだって知ってるでしょ、この剣には刃がついてないんだから。ねえ、僕、これで戦の練習するんだ」
「刃が付いてなくったって、いけません。またギョクハン様に剣のお相手を探してもらいますから、それまでは大人しくなさってください」
 ミネが怒ったように言う。

「だって義叔父さんはギュネイに出かけたんだよ? いつ帰ってくるか分からないじゃない。イリヤも剣はできないし…」

 えいやっ、と剣の型を練習するように、アスランが剣を振り下ろす。と、次の瞬間、ミネの雷が落ちた。

「小アスラン様! いけないと言ったらいけません!」

「別に、ミネに言われたって怖くないよ」
 内心怖がりながらも、強がるアスランに、ミネは怖い顔をしてみせた。

「いいえ、これはミネの言うことではありません。何のためにミネは、小アスラン様についていると思ってらっしゃるのですか」
「僕の世話をするためでしょ。一緒についてきた、護衛の兵たちと同じでさ」
「いいえ違います」

 ミネはアスランの手から、玩具の剣をとり上げた。

「ミネの言葉は、母様からの言葉と思えと、メルヴェ様が出発前におっしゃっていたのを、忘れましたか?」
「…覚えてる」

 母、メルヴェの名を出され、アスランはぎゅっと口を結んだ。

「それならよろしゅうございます」
 ミネが剣の柄をアスランに向けて渡す。その剣を、アスランは大人しく鞘に納めると、また窓辺の椅子に座り込んでため息をついた。

「こんな田舎はつまらないでしょうが、それも大王様のお考えですし、しばらくのことです。どうか我慢なさって…」
「ねえ、ミネ」

 アスランは、先ほどと打って変わった沈んだ声で、つぶやくように言った。

「…僕はいつアユディスに帰れるの?」
「小アスラン様は、母様が恋しいのですか?」
「ううん…違うよ」

 ミネの声の中に同情したような音を察知して、アスランは慌てて首を振った。

「違うよ、寂しくなんかない。でも、こんなこと、初めてだから…」

 アスラン大王が戦に行くのは、何も珍しいことではなかった。しかし、そんなとき、アスランは母メルヴェと共に待つのみだった。 それが、いまは大好きな母と離され、こんな辺境の地に追いやられているのだ。アスランが不満に思うのも無理はない。

「…そうですね、大王様は今回の大きな戦で、お小さいアスラン様の身に万に一つのことがあったらと、御心配なのですよ」
 ミネが、アスランの顔を覗き込むようにして言う。
「うん、それはわかってるよ。でも…」

 アスランは口ごもった。そんなアスランに、ミネは力強くうなずいて見せた。

「大丈夫でございますよ。メルヴェ様もおっしゃっていたように、大王様はすぐに悪者たちをやっつけて下さいます。そうしたら、また元通り宮殿に帰って、皆で暮らせるようになりますから」
「うん…」

 アスランは、母の読んでくれる物語を思い出した。

 物語に出てくる、悪い怪物。それがどんなに大きくて強くても、最後には必ず王様がやっつけてくれるのだ。
 だから、今回もきっと、父様は悪い敵をやっつけて、すぐに僕をアユディスに呼び戻してくれるだろう。

 アスランは寂しさを堪えてうなずいた。

「そうだね…父様は戦っているんだものね…」
「ええ、そうでございますよ」
「僕も、できることをしなくちゃ」
「その剣を、お部屋で振り回す以外のことでお願いしますね」

 何やら考えこみ始めたアスランに、ミネはほっと息をつくと、窓から空を見上げた。

「それにしても、お天道様が見えないと、全然時間がわからなくって困りますわね」
「うん、昼でもこんなに暗いものね」
「まだ冬には早いけれど、寒くなってきましたし、もう薪を焚かなくちゃいけないのかもしれませんね」

 ミネはぶつくさ言うと、ぱたぱたと足音を鳴らして部屋の外に出て行った。
「呪いの大樹か…」

 アスランは、大袈裟に包帯の巻かれた指を膝の上に置いた。

 父様が戦っているのに、僕だけこんなところに閉じこもってなきゃいけないんだろう。まだ子供だから? 弱いから? ううん、僕だって、父様の子なんだから、強くなるに決まってる。きっと、そう、もう少し大きくなったら…。

 そう思った時、アスランの頭にいい考えが浮かんだ。

「そうだ…!」
 僕にできること、あるじゃないか。それも、ここにいる、僕だけにしかできないこと。

 アスランは、ミネが出て行った扉をちらりと見ると、立て付けの悪い窓をできるだけそっと開け、思い切って地面に飛び降りた。そして、呪いの大樹をキッと睨む。

 僕がここにいる間に、あの呪いの大樹をやっつけてやろう――それが、アスランの思いつきだった。物語に出て来る王様のようにかっこよく、この剣で一刀両断にしてやるんだ。

 アスランは腰の剣を確かめた。それから、嬉しそうな笑みを浮かべると、大樹の方向へと駆けだしていったのだった。

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黒澤伊織@小説
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