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第二部 第二章 秘密の外出


 アスランがまず、向かったのは、厩だった。

 ギョクハンの厩は、王宮のそれと比べるとこじんまりとしていて、端から端まで見渡せる。アスランは、裏口からそこに忍び込むと、小声で自分の馬の名を呼んだ。

「…マク?」

 ぶるる、どこかでマクの応える声がする。

 アスランは地面にしゃがみこむと、ずらっと並んだ馬の足を見た。すると、短い毛の生えた細い足に混じって、白く、長い飾り毛の揺れる足が見つけた。

 アスランは思わず笑顔になると、小走りに走り寄り、その足元で顔を上げた。すると、同じようにアスランを見る、愛嬌のある小さな目と目が合った。

「やあ、久しぶり」
 アスランがそう言うと、マクはもう一度鼻を鳴らした。それから、早く綱を外してくれと言わんばかりに前足で地面を掻く。

「内緒なんだから静かにしてろよ…」
 厩の入口あたりからは、飼葉を刻む、規則的な音が聞こえている。アスランはそれを気にしながらも、マクの縄を外した。そして、無造作に仕切りに掛けられていた鞍を乗せると、素早くマクの背中に飛び乗った。

「マク、ヨウヨウ!」
 アスランの合図に、マクは嬉しそうに前足を持ち上げる。

「おい、誰…」
 物音を聞きつけた下男が、厩の中を覗き込む。その脇を風のようにすり抜けて、アスランとマクは外へ飛び出した。

「マク、気持ちいいね!」
 久しぶりの乗馬に、アスランは顔を輝かせてマクの首を叩く。
 マクもアスランの気持ちが分かるのか、楽しそうに、飛び跳ねるようにしながら、全速力で野を駆けた。

 マク――父王からもらったこの馬を、アスランがそう名付けたのは、これがマクヒア種という古代種であるからだった。

 足や顎に生えた、白絹のように長く、美しい飾り毛が特徴であるこの古代馬は、アナトリア王家でしかその血統を保っていない、大変貴重な種であった。
 その昔、このマクヒア種は荷物を運ぶための馬だった。いまは砂漠化した、かつては草原だった陸路を、当時の商人たちは、この馬を使って行き来したのだ。

 しかし、海路が開拓されたいまは、荷運びも船で行われるのが当たり前になり、砂漠化した陸路の過酷さも相まって、馬を使った荷運びは行われなくなった。そのため、必要なくなったマクヒア種は、一時、絶滅の危機にさらされるほどに数を減らしたのだ。

 それを救ったのが、アナトリア王家だった。そのたっぷりとしたたてがみや、貴族のように優雅に見える飾り毛を愛した王家は、マクヒア種を王家の馬として繁殖させ、その血統を守ったのだ。

 つまり、アスランがマクを連れているのは、彼が王子であるという証明でもあったのだ。

 マクがアスランの馬に成って以来、出かけるときにはいつでも――いつもは周りにたくさんの護衛がいるとしても、アスランはマクと一緒だった。
 久しぶりのマクとの遠駆けは、アスランが外出した目的すら忘れさせるほどに楽しかった。

「そうだ、マク。今日はマクと僕の初陣なんだよ」
 その美しい飾り毛をなびかせて、カラカラと乾いた音のする草原を走るマクに、アスランは声をかけた。

「いざ、呪いの大樹へ! まずは敵情視察にいかないと!」
 ぶるる、マクはそう応えたが、彼は大地を駆けることさえできれば、アスランの目的などどうでもいいようであった。


 アスランとマクは、ギョクハンの屋敷から、広い草原をあっというまに駆け抜けた。出発したときには、ずいぶん遠くに見えた呪いの大樹も、ぐんぐんと近づき――その大樹の根元に広がる、紅葉の美しい森の中に入ってから、マクはやっとスピードを緩めた。

「ゆっくり、暗いから気をつけて…」
 森に入った途端、夕方のように暗くなった視界に、アスランは目を慣らすようにぱちぱちと何度か瞬かせた。

 急に暗くなったのが嫌なのか、マクはその場で足踏みをして、小さく鼻を鳴らす。

「怖くないよ、マク。お前だって、王家の馬だろ」
 アスランは自分の恐怖を紛らわすようにそう言うと、改めて森の中を眺めた。

 森の中は手入れされたように、整然と立ち木が並び、落葉樹の落した木の葉で、森の地面はふかふかとしていた。

 季節はもうすぐ冬。大半の森の木が葉を落としているのにも関わらず、その森の上を覆う呪いの大樹は、不気味にも鬱蒼と緑の葉を茂らせている。

「それにしても…」
 しぶしぶ進み始めたマクの上で揺られながら、アスランはつぶやいた。
 呪いの大樹に太陽の光を遮られて、森の中はとても暗い。それなのに、どうしてこんなに草木は茂っているのだろう。いや、ミネの話では、この土地では野菜も山ほどできるのだという。それは一体どうしてなんだ?

 アスランは季節の花々の咲き乱れる、宮殿の庭を思い出した。

『アスラン、見てごらんなさい』
 アユディスの宮殿に咲く花を、愛おしそうに眺めながら、アスランの母、メルヴェは繰り返し言ったものだ。

『お花にはね、太陽の光と、お水、それに、たっぷりの愛情が必要なの。そうしないと、お花は咲いてはくれないのよ』

 その言葉の通り、宮殿に咲く花々はいつでも水を、光を、愛情を与えられていた。

 だから、庭の花は美しく咲き乱れるのだと、アスランも、母の言葉にうなずいた。

 それなのに、太陽を覆う呪い大樹の下には豊かな森が広がり、その周りには、馬を何頭放しても枯れることがなさそうな草原が広がっている。それはなぜなのだろう。

「それに…」
 アスランにはもう一つ不思議なことがあった。
「イリヤは、昔、ここに都があったって言ってたけど…」

 なだらかな隆起のある地面を、アスランは慎重にマクを進ませた。

 物知りなイリヤの話によると、大昔、ここにはとても大きな都があったという。どれくらい大きいのかというと、ちょうどこの森くらい――大樹の根元を覆う、この広い森くらい大きい都が。そして、その都が滅びた後、その周辺に新たに作られた町が、今のネア・クゼイなのだ、と。

「でも、ここには木と草しかないじゃないか」
 都というからには、大きな宮殿もあっただろう。たくさんの人が住む家も、道も、畑も、いろいろなものがあったはずだ。

 それなのに、見渡す限り、ここにはそれらしき跡はなく、ただただ自然だけが広がっている。

「わっ」
 そのとき、突然、目の前に現れた黒い影に、アスランはマクの手綱を強く引いた。その強さにマクも驚き、アスランを背から振り落とす。

「いててててて…」
 眉をしかめて腰をさするアスランを尻目に、黒い影はちらともこちらを見ずに、一息に草の影に飛び込んで見えなくなった。

「…なんだ、鹿か」
 影の正体にため息をついて、アスランは立ち上がった。

 ごめんなさいというように、マクがアスランに鼻面を擦り付ける。
「大丈夫だよ、ここからは僕も歩いていこう」

 小さな目で不安げに自分を見るマクを、アスランはそっと撫でると、そのままマクの綱を引いて歩き出した。

 森の奥に進むにつれ、平坦だった道は上り坂になった。おまけに、地表に飛び出した大樹の根が、これ以上先へ進ませないというように、行く手を遮っている。

「でも、ここまで来たんだから、あそこの、呪いの大樹の根元まで行ってみたいな…」

 息を切らして、額に汗を浮かべながら、アスランは隆起した根を乗り越えた。それはギョクハンの屋敷の塀よりも高く、アスランが全身で組み付いてやっと登れるほどのものだった。これ以上、大きな根があれば、アスランは進めなくなってしまうだろう。

 しかし、努力の甲斐あって、巨大な呪いの大樹の根元は、もうすぐそこだった。

「ああ、でもお前は登れないな…」
 懸命に大樹の根に登ろうとして、ひずめを滑らせるマクを見て、アスランは言った。

「お前はここで待っててよ。僕、ちょっとだけあそこまで行ってくるから」
 マクの鼻面をぺたぺた叩き、アスランは最後の根に組み付いた。そして、それをようやく登りきると、巨大すぎるがゆえに、行く手を遮る壁にしか見えない、大樹の根元に辿り着いた。

「すごい…父上の宮殿よりも大きいや…」

 アスランは大樹を仰いだ。と、その次の瞬間だった。

 ぼこっという音と共に、足元の地面が抜け――アスランは声を上げる暇もなく、深い闇の底に飲まれていった。

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黒澤伊織@小説
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