第一部 第十一章 悪夢
どうして、いままで気付かなかったのだろう。
いつのまにか、ラーレとアスランは男たちに取り囲まれていた。
その中でも、ジャンと呼ばれた貧相な髭面の男は、まるでアスランに何か恨みでもあるかのように睨みつけている。と思うと、その男は、隣にいた大男たちに命令を下した。
「ルザ、ヤウズ、あいつを縛りあげろ」
「ジャン! まさか、俺の後をつけて来たのか!」
「そんなことはどうでもいい。問題は、お前が金を一人占めにしようとしていることじゃないか?」
「金? アスラン、どういうこと?」
何が起きたのか分からずに、おろおろするラーレに、アスランは首を振って叫んだ。
「ラーレ、あいつの言うことなんか聞くな。俺は、金のためにここへ来たんじゃない!」
「黙れ、アスラン」
大男に後ろ手に縛り上げられたアスランが、まるで罪人のように、ジャンの前に引き立てられる。
「この縄をほどいてくれ、ルザ!」
「すまねえな、アスラン」
ルザと呼ばれた大男は、アスランの縄をきつく引き締めたまま、申し訳なさそうに巨体を揺らした。
「オレ、いつもの五倍の給金をいただいてンだ…」
「だからってこんなこと!」
「言っただろう、アスラン。人の心は金で買えるのだと。それが、高いか安いかの違いだけでな」
ジャンは、王のように堂々と馬から降りると、つかつかとラーレに歩み寄った。
「なるほど、上玉だ」
「よせ、ラーレに触るな!」
「ラーレ?」
その名前に、ジャンは眉間にしわを寄せると、今度はアスランに近寄り、その髪を掴んで顔を上に向かせた。
「ラーレの花というのは、こいつが関係してるのか?」
「うるさい、お前には関係ないだろう!」
「お前だと? 調子に乗りやがって!」
無防備なアスランの腹に、ジャンの蹴り上げた膝が沈み込む。アスランは声にならない呻きをあげて、苦しそうに体を二つに折った。
「やめて!」
恐怖に、ラーレは叫んだ。
人間同士が傷つけあう場面を、ラーレは一度も見たことがなかった。一体、どうしたら、こんなことが許されるというのか。
「やめて、か」
せせら笑うようにして、ジャンはラーレを振り返った。
「なら、お嬢さん。そのラーレの花の球根がどうやったら手に入るのか、教えちゃくれないか? もし、教えてくれたら、あんたの愛しいアスランを離してやろうじゃないか」
「ラーレ、何も言うな」
「お前は黙れ」
ジャンは力任せにアスランを殴った。ゴッとくぐもった音がして、今度はアスランのくちびるから赤い血が流れ落ちる。
「大体、お前みたいなやつが、この俺を差し置いて一人立ちするなんて、生意気なんだよ。その上、ラーレの球根も一人占めするだと? そんなことは父が許しても、俺が許さない!」
今までの鬱屈した恨みをぶつけるように、ジャンはアスランを何度も殴った。
体をルザにがっちりと掴まれ、動きのとれないアスランの顔は、別人のように腫れ上がり、赤い血が辺りに飛び散った。それでもジャンは殴ることを止めず、アスランは首をがっくりと落としたまま、とうとう何も言わなくなった。
「あなたは、ラーレの花の球根がほしいの?」
耐えきれず、ラーレは悲鳴を上げるように言った。
「ラーレ…何も言うな…」
顔を上げることもできないアスランが、くぐもった声で制止する。しかし、ラーレはそれを聞かずに、ジャンに向かって叫ぶように言った。
「球根がほしいなら、私がいくらでも生み出してあげるわ!」
「…何だと?」
その言葉に、ジャンが動きを止め、ラーレを振り返る。その驚いたような表情に、ラーレははっとして口を押さえた。
人間は、私たちの能力を利用する。
何度も聞いた、タイファの言葉が、いまやっと現実の危機として、ラーレの頭に警鐘のように響き渡った。が、しかし、口から出てしまった言葉は取り戻すことも、消し去ることもできない。
「いえ、何でも…」
アスランから手を放し、こちらへ歩み寄ってくるジャンに、ラーレは慌てて首を振った。
しかし、時すでに遅く、ジャンは信じられないといった笑みを口元に浮かべつつも、ラーレの肩に触れた。
「女、今、何と言った? 球根を、お前が生み出すだと?」
その力の強さに、ラーレは観念してうなずいた。
「ということは、お前を都に連れて帰れば、いくらでも球根が手に入るのか?」
「…ええ」
口元を醜く歪めたまま、こちらを見つめるジャンに、ラーレはゆっくりとうなずいた。
ごめんなさい。タイファ様、リウたち。
あれほど言ってはいけないと言われていたのに、ラーレはその能力を口にしてしまった。いや、そもそも、あれほど人間と関わってはいけないという教訓を聞かされてきたというのに、ラーレはアスランを愛してしまった。その報いがいま、その身に降りかかったのだ。
ラーレは心の中で、みんなに謝ると、できるだけ毅然として見えるように、しっかりとジャンを見た。
私は、このまま、みんなにさよならを告げずに、この人たちの望むまま、都へ行こう。報いを受けるのは、私一人で十分。この強欲そうな人間に、タイファ様や、他のリウたちのことを知られてはいけない。
「これをご覧ください」
ラーレは自分の言葉を証明するように、手の中に一つ、球根を生み出して見せた。
「…不思議な力だ」
ジャンは、目を爛々と輝かせ、その球根を見つめた。
「球根が欲しいのなら、いくらでもあげます。あなたたちと都へ行けというなら、行きます。だから…」
「これはいいことを聞いた」
ジャンは満足げに、懐に球根を仕舞った。
「なら…」
こうなった以上、ラーレは一刻も早くこの場を離れたかった。
朝の光が空を白く照らし出し、そろそろ皆が起きだす頃だろう。そして、ラーレがいないことに気付き、探しに来るに違いない。
その前に、ラーレはこの人間たちを連れて、この里を去らなければならないのだ。
焦りを気取られまいと、ラーレはうるさく響く鼓動を押さえつけるように、胸に手を当てた。
しかし、何を考えているのか、ジャンはその様子を面白がるように、ラーレの全身を舐めまわすようにして眺めた。
「まあまあ、そう焦りなさんな、お嬢さん」
そう言うと、ジャンは、ただでさえ歪んだ口元を、さらに歪ませて笑った。
「残念なことに、俺はとても強欲でね」
「やめ…ろ…」
人の隠しごとを嗅ぎあてるのだけは得意なジャンに、ぐったりしたアスランが、小さく呻く。
「何ですか」
リウたちを守りたい。その一心で、ラーレは気丈に振舞おうとする。しかし、そんな彼女を見るジャンの目は、まるで獲物を狡猾に追いこむ蛇のようだった。
「お前一人ってことはないだろう?」
「何がですか」
ジャンの恐ろしく醜い顔に、ラーレの言葉は思わず震えた。
「はは、そう怯えられるとぞくぞくしてくるな。…そうだな、俺は頂けるものは、根こそぎ頂く主義でね。おい、ヤウズ、この女を縛って一緒に連れてこい」
そういうと、ジャンはひらりと馬にまたがって、他の男たちを顎でしゃくった。それから、ラーレに向かって
「さて、金の卵を産むガチョウは、あと何羽いるのかな?」
「そんな…」
その欲に歪んだ笑みに、ラーレはこれから起きることを悟り、絶望した。 これがタイファ様が言っていた、豊かさを強欲に求めた人間なの? 一体、この人たちは、アスランと同じ人間なの?
ラーレは必死になって、懇願するようにジャンに訴えた。
「いや、お願い、私だけ、私があなたの望むように…」
「宝の山はすぐそこだ、行くぞ! ヨウヨウ!」
威勢よく掛け声をかけると、ジャンたちは里の中心へ、馬を勢い良く駆けさせる。静かな里に、馬たちの嵐のような蹄の音がこだまする。
「やめて! お願い!」
荷物のように馬に抱え上げられ、声の限りにラーレは叫んだ。と、その目に、丘の上からこちらを見る、リウたちの姿が映った。
「リウ! 逃げて! お願い、早く…」
しかし、ラーレの言葉が届くはずもなく、あっという間にジャンの率いる一団は、巨岩の家の前に到着した。
「ガキを捕まえろ、全員だ!」
「サイファ様! どうしたの? この人たちは誰?」
「いや、やめて!」
たちまち辺りは、リウたちの悲鳴と男たちの怒号で騒がしくなった。
「おら、大人しくしろ!」
「サイファ様! タイファ様!」
「リウ! ああ…」
後ろ手に縛られたまま、ラーレは何とかリウたちを守ろうと地面を這った。そのときだった。
「おやめなさい」
そのとき、騒がしい空気を切り裂くように、凛とした老女の声が響き渡った。
タイファ様だ。
ラーレも、リウたちも、はっとしてタイファのほうを見る。年老いたタイファは杖をつき、足元こそおぼつかないが、その眼に宿る意志の力は誰もがはっとするほど強かった。
「…お前が、こいつらの親か」
しかし、ジャンは、その顔に浮かべた厭らしい笑みを消すことなく、タイファの前に進み出た。
「人間たちよ、今すぐにここから出て行きなさい。そして二度とここに来ることは許しません」
「許さねえ、だあ?」
リウを捕まえたヤウズが、タイファをあざ笑うように言った。
「何言ってんだ、ババアが」
「あなた方は恥ずかしくないのですか。こんな、小さな子たちを…」
「ばあさん」
ジャンはにやつきながら、小柄なタイファを見下ろした。
「俺はこれから都一の金持ちになる男だ。盾つかない方がいいぜ」
「金には何の価値もありません」
タイファはジャンの目を見て、きっぱりと言い切った。
「金のきらきらとまばゆい輝きは、あなたたちのような、卑しい心の持ち主を、惹きつけてやまぬのでしょう。けれど、ただそれだけです。どれだけたくさんの金を持ったとしても、あなたが、あなたの価値が変わることはありません」
「何だって? ごちゃごちゃうるさいばあさんだな」
ジャンは馬鹿にしたようにタイファの肩を軽く小突く。
しかし、足の悪いタイファにとって、それはバランスを崩すのに十分なほどの衝撃だった。
驚くほど簡単に、タイファはそのまま後ろに倒れ込むと、固い石の床に思い切り頭を打ち付けた。
「タイファ様!」
誰かが叫び、ラーレも縛られたまま、無我夢中でタイファの元へ走り寄った。
「タイファ様! 大丈夫ですか、お怪我は…」
ラーレはそう言いかけて、はっと息を飲んだ。
タイファの頭からは、真っ赤な血が流れ出し、ラーレの服を温かく染めていた。
「…一人連れて帰る手間が減ったな」
うそぶくようにジャンは言いながら、一歩後ずさる。
「タイファ様、タイファ様…」
思わず力を緩めた男たちから、するりと逃げ出したリウたちが、次々にタイファを取り囲んで、嫌々するように首を振りながら、涙をこぼす。
「リウ、サイファ…」
そのとき、薄く目を開いたタイファが、泣き出しそうな顔をしている子供たちを、かすかな声で呼んだ。
「タイファ様、大丈夫です、すぐに手当てを…」
「いいえ、神様が私にくれた命は、ここまでよ」
その言葉を証明するように、タイファの顔はみるみるうちに血の気がなくなっていく。
「サイファ、聞いて」
タイファは残り少ない時間を知ってか、力強く、ラーレたちに話しかけた。
「こんなときに、守ってあげられなくてごめんなさいね。これからは皆、サイファをタイファとして生きていくのよ」
「いや、タイファ様、嫌よ」
「…さよなら、リウたち、私の子供たち」
タイファは、自分の身体に顔を埋めるリウの頭に手を置き、つぶやくように言うと、それからラーレにささやいた。
「サイファ、あなたにはタイファになる心構えをいろいろ教えて来たけれど、最後に、一つだけ覚えていてほしいことがあるわ。これがタイファとしてあなたに伝える、最後のリウの一族に伝わる秘密よ」
「…はい」
急なことに混乱したまま、それでもラーレはその言葉を聞き漏らさぬよう、耳をタイファの口元に近づける。
「…ねえ、サイファ。私たち、リウの一族は、天におられる神様が地上に落とされた、大樹の種子なのよ」
「…タイファ様、それは…」
何度も聞いたことがあります。
ラーレはそう言いかけて、タイファの深い色の瞳を見た。
「…いいから、覚えおきなさい。あなたたちのこれからは、とても、辛いのかもしれないのだから」
「…はい、わかりました、タイファ様。でも、私…」
「いいのよ、サイファ…」
タイファはそう言うと、満足したように微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
「タイファ様、タイファ様…」
タイファ様は、天に帰られてしまった。
ラーレは放心して、タイファの上に崩れ落ちた。
「起きてよ、タイファ様…」
「サイファ様、タイファ様が…」
幼いリウたちの悲しげな泣き声が、ラーレの耳を素通りしてゆく。
これは、夢ではないの?
今日は、幸せな夢で、一日が始まったはずだった。それなのに――。
ラーレは、涙を振り絞るように、ぎゅっと目を閉じ、天を仰いだ。
「…おい、いつまでそうしてる気だ」
しかし、野蛮な人間の声は、死を悼む時間も与えてはくれないようだった。
「おい、そろそろ出発するぞ。都へ向かって、な」
男たちはタイファにすがるリウたちを引き剥がし、縄で縛り上げ、荷物のように馬に積んだ。
「おい、女。お前もだ」
ラーレはそれに答えることもなく、ただうつろな目をして、動かなくなったタイファの姿を、男に乱暴に腕を掴まれ、引きずられるようにして歩く自分の姿を、他人事のように見つめていた。そして、これは現実ではない、夢なのだと、そう思い込もうとしていた。
そう、これはただの悪夢だ。
決して覚めることはできない、けれど、目覚めれば消えてしまう、悪夢なのだ、と。