第一部 第五章 その、名前
――ラーレ。
つい、何日か前までは、花の名だった、その名前。
その名前を、今は、私だけに向けて、呼ぶ人がいる。
ラーレ、と名付けられた少女は、面映ゆい気持ちで、アスランの馬を撫ぜた。
この、長い飾り毛の美しい馬の名は、マク。
そして、あの人の名前は、アスラン。
大花から生まれた緑たちは、ラーレも含め、一人一人が、別々の存在ではなかった。少女たちは、二十人全員が、緑という、一つの大きな個のような存在だったのである。
生まれてから、少女たちは一度として離れたことがなく、同じものを食べ、同じ話を聞き、同じ寝床で寝て、互いに寄り添って暮らしてきた。そんな暮らしの中で、ラーレは「自分」というものを、特別に意識したことがなかったのだ。
しかし、アスランは違った。
彼は、ラーレを特別だと言い、その手を握り、口づけをし、少女だけの名前を与えた。
それは、不思議な感覚だった。
その瞬間から、少女は、大勢の緑のうちの一人ではなく、ラーレという個人となり、生まれ変わったような気がしたのだ。
名前って、不思議なものね。
ラーレは、深いため息をついて腰を下ろすと、草を食むマクを眺めた。
「よかった、元気になって…」
ここへ来たときには、アスランとともに疲れ果て、おまけに傷だらけで、倒れそうだったマク。しかし、いまは、その傷も癒え、ここを出て行く日も近いだろうと思わされた。
けれど、ラーレはこの頃、それを素直に喜べない自分に気づいていた。
マクが去ってしまうということは、アスランも、里から去ってしまうということだ。彼らは、この里のものではないのだから、当然だ。けれど、そう分かってはいても、ラーレの心は、ただの寂しさとは違う、胸が締め付けられるような感情でいっぱいになるのだった。
「私たちも、あの昔話のように、人間と暮らせるといいのだけれど」
それが叶わない望みだと知りながら、ラーレはつぶやいた。
アスランが尋ねたとおり、緑の一族は、人間とは成り立ちの異なる一族だった。
大花は、そんな緑の一族の成り立ちを、昔話として、よく語ってくれた。その昔話は、大花の、そのまた大花の、そのもっともっと昔の大花から受け継がれた、遠い遠い日の話だった。
『…その昔、天には大樹がありました。その大樹は、神様が育てたものでした。小さな種子を手ずから植えられ、水をやり、慈しんでやったのです。すると、そのうちに、その樹は花を咲かせ、種子を実らせました。喜んだ神様は、それを捥ごうとしました。しかし、そのときでした。神様はあやまって手を滑らせ、その種子を地上に落としてしまったのです…』
ラーレも、もちろん、緑たちも、この話が大好きだった。この素敵な昔話も、それを語る、大花の優しい声音も。
『…そして大樹の種子は、天から遥か遠い大地に落ち、それは芽吹くと、緑の一族となったのです』
それからというもの、緑の一族は地上で暮らすようになった。それも、人間と共に――。
ラーレは、両のてのひらを柔らかく合わせ、目を閉じると、胸の中で花をイメージした。
すると、そのラーレの気持ちに呼応するように、合わせたてのひらからは光がこぼれ、刹那、強いきらめきを放った。
そして、その光が消えると、ラーレは目を開き、そっと手を開く。すると、何もなかったはずのてのひらの上には、ころんとした、可愛らしい小さな球根があった。
ラーレは、その球根を、柔らかな地面に埋め、それを撫ぜるように手を動かした。
「綺麗な花を、咲かせてね」
すると、地面からは、みるみるうちに小さな芽が出て、のびやかに葉が、茎が伸び、つぼみをつけ、あっという間に、美しいラーレの花が、ラーレを見上げるようにして咲いた。
「まあ、可愛い」
ほのかな桜色に咲いたラーレの花を見て、思わずラーレは笑みをこぼす。
「そうね、あなたの心が咲いたようね」
声に振り返ると、いつのまにか、ラーレの後ろに立った大花が、優しい眼差しでこちらを見ている。
「こんなところまで、どうされたのですか?」
足の悪い大花を気遣って、ラーレは立ち上がり、その手を取った。ありがとう、大花は微笑み、ラーレの目を見つめた。
「あの御客人のことだけれど、あと数日でお別れになると思うのよ。それを、あなたには伝えておこうと思って」
「…そうですか」
ラーレは顔を伏せた。その様子に、大花も寂しそうな笑みで尋ねた。
「…寂しい?」
「ええ、いいえ、そんなことは」
「どっちなのかしら」
「…少しだけ」
大花は、うつむいたままのラーレから視線を外すと、遠くを眺めた。
「…あなたの気持ちはわかっているつもりよ。けれど、あなたは小花。私がいなくなったあとに、一族を率いる役目につくのだから」
「ええ、わかっています。でも、あの、大花様…」
「なあに?」
「人間は、そんなに悪いものでしょうか?」
突然、思いつめた様子で訊ねるラーレに、大花は小さく首を振った。
「私たちと同じに、神がおつくりになったものですもの。人間そのものは悪いものではないと思うわ。けれど…そうね。私たちは彼らとは道を違えてしまったのよ」
大花は、足をかばいながら、ラーレの手を借り、ゆっくりと草の上に腰を下ろした。
「私たちの力は、人間を惑わしてしまうの。その話は、いつもしているでしょう」
「ええ…」
ラーレは、自分の手をじっと見つめた。
この、草木を操る能力。
この手からは、ラーレの花の球根が生まれ、クリュの種が生まれ、そしてその種は時間を待たずに育ち、花をつけ、実を結ぶ。
大花はもちろん、他の小さな緑たちにも、能力に差こそあれ、同じようなことができた。それは緑の一族の力なのだ。
「私も、私の大花様に聞いたことでしかないけれど…」
大花は、昔を懐かしむように遠い目をした。
「地上で芽吹いた私たちの歴史は、長い間、人間と共にあった。私たちは豊作を呼ぶ一族として、旅をして各地を回ったのよ。貧しい地に小麦を育て、家畜の食べる草を生やし、そして時には、茂りすぎた森の木を枯らし、その反対に、砂漠を森に変えたこともあった。そう、私たちの祖先は、いまの私たちとは比べものにならない、とても大きな力を持っていたのよ」
大花は、寂しそうに言う。
「でも、大花様。いまの私たちだって、こんなふうに、花や木を育てられるんだから、それで十分です。ここで暮らしていくのに、そんな大きな力はいりませんし」
「そうね」
励ますように言うラーレに、大花はうなずいた。
「昔は――、あの頃は、人間も、私たちと同じ、大地に生きるものだった。だから、共にいることができたのよ。けれど、そのうちに、豊かになった人間たちは、大地を自分たちの持ち物として扱うようになってしまった。この誰のものでもない大地を、細かく区切り、その小さく区切られた土地に、自分の名前を書き込んで…。そして、その小さな大地の主は、自分の大地にだけ、豊かさが宿ればいいと考えた」
王や貴族、領主に地主、畑を耕す農民までもが、大地に見えない線を引き、自分のものだと主張した。その大地の上に生えたものならば、草木一本に至るまで、己の物だとそう言った。
そんな、降って湧いたようなおかしな決めごとに、大地とともに生きる、緑の一族も巻き込まれた。
「…人間は、私たち、緑の一族の力を、自分だけのものにしようとしたのですね」
「ええ、そうよ」
悲しげに、大花は遠くを見た。
各地を旅し、その土地に豊作を呼んでいた緑の一族は、あるとき、その大地を区切った主に捕われ、その力を使うことを強制された。
逆らったものは殺され、力を使わないものたちは、暗い穴倉に閉じ込められた。けれど、一部の緑たちは、そこから命からがら逃げ出した。この里は、そんな緑たちが辿り着いた場所なのだ。
彼女たちは、間違っても人間に見つかることがないよう、里の周囲に、迷いの森を生み出した。こうして、緑の一族は、二度と、人間の前に姿を現すことはなかった。――アスランがこの地を訪れるまでは。
「でも、アスランは、そんな悪い人じゃありません」
ラーレは、小さく呟くように言った。
「私たちの一族が悲しい目に遭ったのは、事実です。でも、彼は、アスランは違います。私たちの力を、自分の欲のために使うなんて、そんなこと…」
俯くラーレを、大花は見つめた。それから、ため息にも似た吐息を漏らすと、優しい声でラーレに言った。
「緑、あなたはアスランに恋をしているのね」
「恋…?」
ラーレの黒い瞳は、いつのまにか、その視界がぼやけるほどの涙を湛えていた。
「大花様。恋って、何ですか」
「あなたと、アスランが、惹かれ合う心よ」
大花の言葉に、ラーレは涙を拭って言った。
「人間には、男と女があるのだと、アスランが言っていました。そして、その二つの種が惹かれあい、交わるときに、子供を成すのだと」
「ええ」
大花は大きくうなずいた。
「そうよ。そして、その二つの種が惹かれあう感情を、恋と言うの。その惹かれあった相手と一緒に生きていきたいという、気持ちのことよ」
――アスランと、一緒に生きていきたい?
ラーレは、どきりとして、自問した。
私は、アスランと一生を共にしたいと思ったのだろうか。あのとき、アスランの大きな温かい手に包まれ、まるでそうすることが決められていたかのように、自然とくちびるを重ねたときに――。
ラーレはその瞬間を思い出し、熱くなる頬を両手で挟んだ。
「…私たちは、人間のいう、女のかたちをしているの。だから、昔は、人間の男に恋をして、一緒になった緑もいたそうよ」
「本当ですか?」
それなら、私も。――と、ラーレは、思わず出そうになった言葉を飲み込んだ。そんなラーレを、大花は愛おしそうに見つめた。
「もちろん、人間の男と私たちが交わったところで、子供が生まれることはない。それに、緑を愛し、共に生きると約束した男は、人間には戻れない。私たちと同じように、悠久のときを生きることになるわ」
「そうなのですか…」
答えながら、ラーレは、アスランとの日々を夢想した。もし、アスランが、一緒に行かないかと言ってくれたら。共に生きると、そう約束してくれたら。人間の命では叶わない時間を、いつか、二人が天に帰る日まで、私たちはずっと、ずっと――。
けれど、そんな夢が叶わないことは、ラーレ自身、よく知っていた。
大きな能力を失った、緑の一族の力は、時代を経るごとに弱まっている。このままではいずれ、新しい緑を生み出すことすらできなくなるかもしれない。そうなれば、一族は終わりだ。しかし、小花であるラーレには、まだその力がある。他の緑たちよりも大きな、一族の残した力が――。
「でも、いいんです、大花様」
ラーレは、想像を払いのけるように首を振ると、大花にうなずいた。
「私は、小花ですから。立派に、大花様の後を継いで、そして、緑の一族を守ってみせます」
それに――と、それから先は心の中で、ラーレは呟く。それに、アスランだって、この里を出てしまえば、私のことなんて、きっと忘れてしまうに違いない。
その心の声を知ってか知らずか、大花もゆっくりとうなずいた。
「ありがとう、小花」
大花の皺だらけの手が、ラーレの手に重ねられる。ラーレはその温もりを感じながら、豊かな大地を眺めた。
きっと、私の長い長い時間の中に、恋という、アスランの教えてくれた感情は埋もれていく。
でも、彼が行ってしまうまでは――それまでは、この感情が、私の胸を熱くするのを感じていたい。
ラーレは穏やかな眼差しで、自分の咲かせた、風に揺れる花をじっと見つめたのだった。