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緑の一族

 プロローグ

 見たことのない花が咲いていた。
 あるものは茜で染めた糸より赤く、あるものは白絹の衣より白く、またあるものは、いままで見た、どの空の色よりも青い。

 その色とりどりの花々は、まるで都一の職人が織った、絨毯の模様のように咲き乱れ、その七色の輝きは、一日中見ていても飽くことがなさそうだ。
 あたりは、何百年と生きているのだろう、人ひとりでは抱えきれぬ幹を持つ木々が並び立ち、地面に涼しげな影を落としている。その影と光の狭間で、キラキラ輝く湧き水は、豊かな水量で溢れ出ていた。

 その光景は、鬱蒼と茂る森に迷い、今にも倒れそうなほど疲れたアスランの目に、まるで天国のように見えた。

 しかし、アスランが今、その黒い瞳に映しているのは、その美しい光景ではなかった。

 それは、その名も知らぬ花の中に佇む、一人の少女。
 年のころは一七、八といったところか。
 見られていることに気づき、少女もまた、驚いたようにアスランの瞳を見返した。

 彼女に話しかけても、いいのだろうか――。

 夢見心地で、アスランは、ぼんやりと考えた。
 そんなことを考えずにはいられないほど、少女の立ち姿は、人間離れした様子だった。もし、アスランのような地上の人間が、うっかり話しかけたなら、風のように、たちまち消え去ってしまう、精霊なのではないかというくらい。

 そのとき、身じろぎもしないアスランにしびれを切らして、隣で大人しくしていたマクが、ブルルと不満そうに大きく鼻を鳴らした。
 その音で、時間を止めていた魔法が急に解かれたかのように、アスランはマクを振り向き、少女は足元を覆う花に恥ずかしげに目を落とす。

「ごめん、お前のこと、忘れてたよ」

 アスランはマクの鼻面を撫で、小声で言うと、思い切って、少女に声を掛けた。

「すみません、俺、いや、僕、道に迷ってしまいまして、その……少しここで休ませていただけると助かるのですが」
「…………」

 少女は答えようとして口を開いたが、しかし、なぜか躊躇うように、アスランとマクを交互に見つめる。

「あ、こいつが珍しいですか? こいつはその、行商に使う荷物運びのマクヒア馬なんです。名前はマクっていって、でもそんなに大喰らいじゃないし、その辺の少しの草で十分で…大人しいやつだし、もちろんそのきれいな花を踏み荒らすこともさせませんし……」

 アスランは、慌てて相棒を庇ったが、それ以上言葉を続けることができずに、少女の反応を待った。

 しばらく、木々のざわめきだけが、二人を包み込んだ。ややあって、少女はようやく口を開いた。しかし、その第一声は、とても奇妙なものだった。

「あなたは……人間?」
「人間って…」

 奇妙なことを聞くものだと、アスランは思った。そんなことを問うだなんて、彼女は本当に精霊なのだろうか。
 アスランは無意識にマクの引き綱を握りしめた。

「君は、人間じゃないのかい?」

 アスランの言葉に、少女はまたためらってもじもじと両手を組み合わせる。

「私は…」
「姉様、小花(サイファ)姉様!」

 少女が答えようとしたその時、大木の向こうから、たくさんの女の子たちが走ってきて、少女にじゃれつくように群がった。

「姉様って…」

 アスランは驚いて思わず声に出して言った。

「この子たち、全部君の姉妹なのかい?」

 女の子たちは、少女と同じくらいに見える者から、下は小さな、五歳くらいの子までいる。その上、その人数は、ざっと数えても二十人ほどで、姉妹にしてはいくらなんでも多すぎる数だった。

「きゃっ、小花姉様、これ、誰?」

 アスランの声で、初めてその存在に気付いたのだろう。女の子たちは、少女に群がったまま、びっくりしたようにこちらを見た。その姿に驚いてか、マクがいやいやをするように後ずさりながら首を振る。

「マク、ヨウヨウ」

 嫌がるマクをなだめながら、アスランもまた驚いて、少女たち、一人一人の顔を見比べた。

「リウ…」

 それは名前なのか、少女は、自分にすがりついた女の子の頭を撫でながら、小さくつぶやく。

「小花姉様、これ、人間…なの…?」

 幾つもの黒い瞳が、不安げにアスランを見る。

 マクは動物の本能で、何かを感じ取っているのだろうか。ここから逃げようとばかりに、首を振り続ける。
 アスランもまた、不気味な思いがして、少女たちから離れるように、一歩、後ずさった。

 俺は一体、どこに来てしまったんだろう? この目の前の少女たちは、やはり人間ではなく、精霊なんだろうか?
 目の前の少女たちは、まるで人形のように、まったく同じ顔をしていた。その一部も違わず、そっくりな少女たちの顔をじっと見つめながら、アスランの意識は遠くなっていった。


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黒澤伊織@小説
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