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第二部 第七章 大樹の問い
久しぶりの外出だった。
顔を見られないようにというミネの主張で、顔半分を覆うように巻いた布がうっとおしいけれど、外に出られるのならどうでもいい。
アスランは鬱々とした気分を吹き飛ばすように、大きく外の空気を吸い込んだ。
あの日――皆に無断で森へ行った日、泥だらけになったアスランがギョクハンの屋敷に帰りついたのは夕方になってからで、その禁断の冒険が誰にも知られないわけがなかった。
『小アスラン様』
特にミネは、アスランが今までに見たことがないほど怒っていた。
『何のために、アスラン大王様が、メルヴェ様が、小アスラン様をここへやったのか、今一度お考えになってください。そしてその答えが出るまでは、このお部屋から出ることは許しませんからね』
ミネはそう言うと、その日の夜から、アスランの部屋の前の廊下で寝起きして、文字どおりアスランから一秒たりとも目を離すことを拒否するようになった。
用を足すにも、部屋で本を読むにも、まるで親の敵のようにじいっと視線を外さないミネに根負けしたアスランは、もう決して一人で出かけないと、ミネに固く約束した。
そして、その代わりにということでもないが、今日はミネと護衛たちと一緒に、月に一度開かれる、町の市場に買い物に来ていた。
それでも、今までのアスランなら、いくら部屋に閉じ込められるのが嫌だと言っても、市場へ行ってみたいなどと言いだすことなどなかっただろう。
アスランにそんな思いつきをさせたのは、ほかでもない、あの大樹の声との会話であった。
もちろん、アスランもあの呪いの大樹と話したなんてことは、まだ誰にも言っていない。
もし、大樹と話したなどと、アスランが周りの誰かに、例えばミネに言ったとしても、そんなことミネは信じてくれるどころか、アスランが病気か何かだと大騒ぎするだけだろうと思ったのだ。
そんな誰にも言えない秘密の会話を、アスランは毎日思い出してはため息をついていた。
僕は、どうして何にも知らないんだろう。
これもミネに見つからないように、肌身離さずポケットに入れている、大樹のくれた金の髪飾りを指先で触りながら、アスランは前を行くミネの肉付きのいい背中を眺めた。
大樹の質問に何も答えられなかった自分に、アスランは悔しいと同時にとても恥ずかしかった。
きっと、王である父様なら、あの問いにすべて答えられるはずなんだ。それなのに、僕は何も答えられない。
そんな思いで周りを見回すと、世界はアスランの知らない事だらけだった。
例えば、ミネは一体どうして僕の世話をしてくれるのか。
例えば、どうして他の人の家は、ギョクハン#義叔父{おじ}さんの屋敷やアユディスの宮殿よりも小さいのか。
例えば、僕が今食べているものはどんなふうにして、大地から生えて来るのか。
王宮にいた時に、アスランは文字を習った。そしてアナトリア王国の歴史を読んだ。それから、兵法書を読んだ。
けれど、そのどの本も、アスランの生活がどうして成り立っているのか、教えてくれはしなかった。
金銀に彩られた豪華な生活は、一体どうしてアスランに与えられるのだろう。大樹のどんな問いにも答えられない僕が、どうして王になれるのだろう。
大樹の単純な疑問の答えを、アスランはいつのまにか自分自身でも求めるようになっていた。
「小アスラン様、ぼうっとしないでくださいましよ」
山と積まれた丸い根菜を手にとって確認しながら、ミネが心配そうに、心ここに非ずといった風のアスランを見た。
アスランは我に返ると、ミネの手にしたものを不思議そうに見た。
「うん、大丈夫だって。…ところでミネ、それは何?」
「これ、でございますか?」
アスランの質問に、ミネは目を瞬かせて聞き返した。
「うん」
「これは…根イモでございますよ。今朝もお召し上がりになったでしょう。あの、スープに入った…」
「ああ、あの四角い?」
「そうでございますよ」
アスランはまじまじと、少しでも触ったら崩れてきそうなバランスで積まれた根イモを眺めた。
いつもアスランの食卓に上る根イモは、真っ白で綺麗で小さな四角形のものだ。それなのに、目の前の根イモは、小さく真っ黒で大きく、形も真ん丸である。
「洗うと、白くなるの?」
「いいえ、あの黒いのは皮でございます。皮をこそげて、それから切り分けで、料理するのでございますよ」
「ふうん…」
ミネは早口でアスランに説明しながら、根イモをかごに計ると、その重さの分のディル銅貨を根イモ売りに渡す。
「はい、毎度あり」
根イモ売りは銅貨を確かめると、にかっと歯を出して笑った。
「さ、次へ行きましょう。次は…」
「ねえ、ミネ」
せかせかと急ぐミネの背中を追いかけて、アスランはそっと訊ねた。
「ねえ、あの根イモ売りの人は、どうして根イモを売っているの?」
「はい?」
「だから、あの人が根イモを売るのはなぜ?」
何を言われているのだかわからないと言った顔で、ミネは眉根を寄せてから、何かを諦めたように小さく首を振って答えた。
「それは、生活するお金を得るためでございましょう。…ああ、本当にここには野菜しか売っていないのねえ」
月に一度の市だというのに、店もまばらなら人もまばらの大通りをきょろきょろと見まわしながら、ミネは歩き回る。
ミネに置いていかれないように、アスランも早足で歩きながら、質問を続けた。
「それなら、お金はどうして必要なの?」
「どうしてって、お金がないとミネがこうして品物を買うこともできませんよ。そうしたら、小アスラン様の御食事も、用意できませんでしょう?」
「そうか」
「ええ、そうですよ」
アスランの納得した顔に、ミネがほっとした顔をしたのもつかの間、また新たな疑問が浮かんだアスランは、ミネの服の裾を引っ張った。
「でもさ、あの根イモ売りの人は、どうして根イモを持っているの?」
「…それは、根イモ売りが根イモを育てているんでしょうよ。小アスラン様、ミネの服をお離しください、みっともない」
「うん…」
アスランは素直に裾を掴んだ手を離すと、ミネを見上げるようにして訊いた。
「じゃあ、僕も根イモを育てたら、食べ物に困らないよね? そしたらミネはお金が無くても、僕の食事が作れる?」
「小アスラン様は、根イモをつくる、農民におなりになりたいのですか?」
足を止め、呆れかえったように言うミネに、アスランはもどかしく首を左右にかしげながら言い返した。
「違うよ。違うんだよ。そうじゃなくって、どうして根イモを売る人と、買う人がいるのかなって。分からない? それなら、ええと、どうして僕は、根イモを売らないのに生活ができるのかしら?」
「…まったく小アスラン様はミネには想像のつかないことを考えていらっしゃる」
ミネは考えることを拒否するように小さく頭を振った。
「どこの国の王子様が、根イモを売って生活してるんですか」
「だから、ミネ、僕の言ってることは違うんだよ…」
違うんだけれど、と煩悶しながらも、やっぱりうまく説明できないアスランは、ミネに訊ねるのをやめて、大きなため息をついた。
自分は大樹の問いの意味すらきちんとわかっていないのだ。そんな、自分自身にも説明できない問いを、ミネに訊ねても期待する答えなど返ってくるはずがない。
大樹への問いのとっかかりもつかめずに、アスランは困惑した。
「わからないことがあれば、書物を読めとアユディスの先生はおっしゃってましたよ」
今度はじっと考えこんでしまったアスランを見かねたように、ミネが言って急に足を止めた。
「わ、何?」
「ほら、あそこの本売りでも、見てきたらいかがですか」
ミネの指差す先には、店とは言えないような、地面に布を広げただけの上に本を並べている若い男がいる。
「ああ、そういえば」
アスランは根イモのことを忘れて、まだ部屋で伏せっているイリヤとの約束を思い出した。
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