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第一部 第十三章 神様のいる場所

 

「おい、女。これを食べ終わるまでに、子供らの中から三人、好きなやつを選んでおけ」

 ある朝のことだった。
 朝食を運んできた兵士が、扉越しにそう言った。

「…なぜですか?」
 ラーレは戸惑い、問い返した。兵士が彼女に話しかけるのは、初めてのことだった。嫌な予感が胸をよぎった。

 しかし、兵士はそんなラーレを尻目に、吐き捨てるようにこう言った。
「王の命令だ。その三人以外は、ここから出してやる」
「出して…?」

 もし、それがこれまでの彼女だったなら、その言葉に心の底からほっとし、感謝しただろう。

 しかし、いまやラーレはそんな希望を持つことさえ億劫になっていた。
 強欲な人間たちが、私たちを手放すはずがない――そう知るに十分な年月が、ラーレの胸には刻まれていたのだ。

 だから、ラーレは感謝する代わりに、こう言った。
「その三人を、あなたがたはどうする気なのです?」

 その淡々とした声に、兵士はむっと顔をしかめた。

「どうって、出してやると言ってるんだ。嬉しくないのか?」
「でも、それは自由にしてくれるという意味ではないでしょう?」
「ふん、少しは知恵があるってわけか」

 兵士は呆れたように首を振り、肩をすくめた。それから、
「じゃあ教えてやるよ。選ばれた三人は、親交の証として隣国の王に献上される。もしかしたら、ここに一生閉じ込められるよりも、ましな生活ができるかもな」

「そんな…私たちを離れ離れにすると言うのですか?」

 思いもよらない出来事に、ラーレは狼狽えた。しかし、兵士はそんな彼女を鼻で笑った。

「王の持ち物を王がどうしようと勝手だ」
「嫌です。私たちは王の持ち物などではありません」
「お前は何を言ってるんだ。この国のものはすべて、王のものに決まっているだろう。それに、お前は王の差し出す食事を食べ、この部屋で暮らしているというのに、それなのに自分が王の持ち物ではないというのか?」

 私たちは、望んでここにいるわけではない――ラーレは混乱し、兵士に向かって叫んだ。

「それならあなたは? あなたも王の持ち物なの?」

「俺か?」
 すると、兵士は再び肩をすくめた。
「ま、王から給金をいただいてるのだから、俺も王の持ち物と言っても間違いじゃないかもしれんな」

「じゃあ、アスラン、アスランも?」
「あの男だって王に面倒見てもらってるんだから、同じだろう。…それよりも、騒ぎ立てずに三人、選んでおくんだぞ」

 話は済んだといわんばかりに、兵士は廊下の奥へ消えていく。

「待って、私たちを離れ離れにしないで!」

 彼を呼び戻そうと、ラーレは扉を叩き、声を上げたが、それが無駄であることは彼女自身がよく知っていた。

「そんな…嫌よ…」
 ラーレは扉にすがるように、ずるずると崩れ落ちた。
 私たちは王という人間に囚われてしまった。けれど、最後まで皆と一緒にいられる、それだけが、心の支えであったのに。

 王とは何と無慈悲なものだろう。

 そして、大花様の言った通り、人間はなんて欲にまみれたものなんだろう。
 ラーレは扉にすがったまま、声を殺して涙を流した。

「大花様…」
 その背中に、緑の一人がそっと手を触れる。
「大花様、大花様…」

 それを皮切りに、ほかの緑たちも次々にラーレの周りに集まり、その衣の裾をぎゅっと掴んでうつむいた。

「緑…」
 流れ落ちる涙を拭おうともせずに、ラーレは振り向き、緑たちを抱きしめた。そうしながら、兵士が言った言葉を何度も噛み締めた。

 この国のすべては、王の持ち物である。
 この国のすべて――土や水や、建物や、そこに住む人々さえ、すべては王の持ち物なのだ。さっきの兵士も、与えられたわずかな食事も、寒々しいこの石牢も。そして、ラーレたち、緑の一族――それから、あの愛しい人、アスランでさえ。

 絶望に底があるのなら、ラーレはそこに落とされたような気分だった。
 アスランは、やはり私たちを助けることはできないのだ。なぜなら、そのアスランでさえ、王の持ち物だから。そして、だから私たちは離れ離れになるのだ。一生、共に生きていくはずの一族が――。

 いえ、私たちは離ればなれになんかならない。

 何かを決意するように、ラーレは唇を噛んだ。
 緑たちの母である私が、皆と離れ離れになるなんて、そんなことできるはずがない。

 大花がいなくなってから、ここへ閉じ込められてから、皆、悲しい気持ちを笑顔に変えて、寄り添い、支え合って暮らしてきたのだ。
 辛い、苦しい、帰りたい、そんな言葉を口にすることなく、命令されたとおり球根を生み出し、カルを編み、里にいた時と同じように、明るく振舞ってきたのだ。
 そんな私たちが、離ればなれになっていいはずがない。

 ラーレは、緑たちを抱きしめる腕に力を入れた。

 その思いは、ラーレの衣を掴んで離さない、緑たちも同じなのだろう。皆、寄り添ったまま、誰一人として彼女の傍を離れようとはしない。そして、

「大花様…」
 長い沈黙の後、一人の緑が、とうとうつぶやいた。
「なあに?」

 ラーレは涙を押さえて、出来る限り優しい声音で答えた。
 すると、また別の緑が、ラーレを呼んだ緑の言葉を引き継ぐようにして続けた。

「最後まで、皆一緒だって、大花様は言ったでしょう?」
「…ええ、言ったわ」
 同じ大花様から、同じように生まれた緑たちの心は一つになり、ラーレを包み込むようだった。

「大花様、私たち帰りたいわ…」
「うん、帰りたい…」
「そうね、でも…」

 抱き合った皆の心に、あの野蛮な人間たちに蹂躙される以前の、緑の里の美しい風景が美しく浮かぶ。

 季節は今、いつであろうか。
 よどんだ空気の中からは感じられない、外の新鮮な空気の色を、ラーレたちは心に思い描いた。

「大花様、あのお話をして」
 すると、一人の緑が、同じ里の風景を心に浮かべたまま、ラーレに囁く。
「大花様がしてくれた、天の神様のお話」
「いいわよ」

 ラーレは緑たちの方に振り向くと、緑たちはその周りを囲むように、手を繋いで寄り添い、目を閉じた。

「…天には大樹がありました。そしてその大樹は神様が育てたものでした」
 今は亡き大花が、いつも話してくれた昔話を、ラーレは一言一句確かめるように話した。

 古代の昔から、緑の一族に伝わる昔話。
 大花の、そのまた大花の、そのもっと昔の大花から受け継がれた、遠い遠い日の話。

「…大樹は花を咲かせ、種子を実らせ、神様はその実りを手にしようとしました。しかし、あやまって手を滑らせ、その種子を地上に落としてしまったのです…」

 大花から何度も聞いたその話を、今度はラーレが大花として、緑たちに話して聞かせる。
 そのラーレの言葉に、緑たちも小さな声でまるで歌を口ずさむように、声を合わせていく。

「その大樹の種子は、天から遥か遠い大地に落ち、そして…」
 何度も聞いた、その子守唄のような心地よさは、ラーレの涙を癒し、心を穏やかにし、嫌なことすべてを忘れさせた。

「――それは緑の一族となりました」
 そして、その最後の言葉を言い終わると、小さな部屋の中は再びしん、と静まり返った。

「…ねえ、大花様」
 その沈黙を遮ることない静かな声で、緑の一人が口を開いた。
「…私たち、帰りたいわ」
「ええ、そうね…」

 ラーレは答えた。しかし今度は、でも、という言葉は続けなかった。
 緑たちが帰りたいと言った先が、里ではないことを、一つになった心が教えていたからだ。

「どうしたら帰れるか、大花様は知ってる?」
「…ええ、知っているわ」
 ややあって、ラーレはゆっくりとうなずいた。
『私たち、緑の一族は、天におられる神様が地上に落とされた、種子なのよ』

 大花様が亡くなる前に言った言葉。きっとあれはそういう意味だったのだ。
 今、それをラーレは確かに理解し、その心は緑たちにも伝わっていった。

「大花様、私たちは天の神様が落とした、種子なのね」
「…そうよ」

 何かを決意したような、穏やかとも言える瞳でラーレはゆっくり顔を上げ、自分を見つめる緑たちの顔を順番に眺めた。
 その同じ顔、同じ瞳。ラーレは緑たちに微笑んだ。

「私たちは王の持ち物なんかではないわ。だって、私たちは、神様のところから来たのだもの」
「うん」
「だから、天に伸びて、帰りましょう。私たちが生まれた場所へ」
「うん、大花様、天へ帰ろう」
 皆の返事が一つに揃い、ラーレと同じ微笑みをその顔に浮かべる。
「皆が、いつまで一緒にいられるようにね」
 そう言うと、ラーレは皆と目を閉じた。

 その最後の瞬間に、彼女の脳裏にアスランの姿はかすめただろうか、それはラーレ自身にも分らない。

 しかし、その長く、黒い髪には、アスランの贈った金の髪飾りが、薄明かりにきらめいていたのだった。

  *

 しん、と静かな部屋で、ラーレと緑たちは一つの風景を共有していた。
 それは誰も見たことのない、遠い遠い、緑の種子が大地に落とされる前にあった、天の風景。

 白く明るく、優しい母の眼差しのような太陽が降り注ぐその場所。
 すべてがありのままの姿で愛され、そしてすべてを愛することができる場所。
 理不尽に命を奪われた大花が、緑の種子を生んだ大樹が、そしてその大樹を慈しむ神様のいる場所。

 私たちのいるべき場所はここではない。だから、私たちは帰りたいのだ。
 誰も見たことがない、想像の風景。そこに皆は恋い焦がれ、帰りたいと強く願った。

 どれだけそうしていたのだろう。

 しばらくすると、皆の願いに応えるように、その胸にごく小さな光が宿った。

 そして、それがその光景の始まりだった。


 皆の強い願いから生まれたその小さな光は、ラーレを中心に、緑たちを包み込むような大きな光へ変化していった。

 その大きくなっていく光の中で、緑たちは苦しみの鎖から解き放たれたような微笑みを口元に浮かべている。

 そして、その光が緑たちの姿を包み隠した次の瞬間だった。
 炎が燃え上がるような勢いで、目もくらむような光の柱が、石牢を破壊し、一気に空へと突き抜けた。

 バリバリと音をさせて外へ突き抜けた光の柱の中で、緑たちの身体はねじれ、絡みあい、天めがけてまっすぐに、ぐんぐんと伸びる。

 その目は閉じられていても、暖かな太陽の光を全身で感じているのだろう。
 高く、高く、確固たる意志を持って、光の柱は天を目指して伸びていった。

 そして、その光の柱が天に伸びあがったのと同時に、緑たちの足からは、その身体を支える太い根が伸びた。

 その根はみるみるうちに太り、まるで生き物のように床をまさぐると、土を求め、石床を砕くようにして下へと伸びた。

 それは巨大な触手のようにのたうち、暴れ、まるでクゼイの都を飲み込むかのように、地面の奥深く深くへと潜り込んでいく。

 あまりに急激に地下を貫いていく太い根に、あたりには地響きが轟き、地上にあるすべてのものは激しく揺れ、鼠は逃げ出し、馬はいななき、羊は怯えて半狂乱で駆けまわった。

 神の怒りが大地に降り注いだかのような天変地異に、何事かと窓から外を眺めた人々は、天に昇る光の柱と、こちらへ向かって瓦礫を跳ね上げる巨大な根に、驚きのあまり逃げることも忘れて、ただ口をあんぐりと開けた。

 勢いを失うことのない大樹の根は、その人間もろとも家屋をはね飛ばし、旅宿を破壊し、店も、道も、畑も何もかもを土に返そうとでもするように、粉々に破壊していく。

 そしてついに、そのあまりに強引に大地にねじこまれた根は、地割れを呼び起こし、地割れは腹を空かせた生き物のようにぱっくりと口を開け、都だった、すべてのがらくたをざらざらと音を立てて飲みこんだ。

 そうして、そのすべてを飲み込んだ地割れは、しばらくして、もう何も飲み込むものが無いことに気付くと、それなら仕方がないと言わんばかりに、また轟音を響かせながらしぶしぶその大きな口を閉じていった。

 大地を掴んだ根を支えに、天高く伸びていった光の柱は、空を越え、雲を突き破り、そして目には見えない遥か高い場所まで伸びると、ようやくその成長を止めて光を失った。

 そして、その光が消えると、遥か天まで届くかのような、巨大な大樹が姿を現した。

 その幹は、かつてそこにあった宮殿よりも太く、その枝は地に飲み込まれていった都の空を覆い尽くすほどに広がっている。

 静かになった大地にそびえる大樹は、都の養分をすべて吸収して芽生えた、巨大な生き物のようであった。

 どんなに遠くの国からも見えるであろう、この大樹の伸びる姿は、きっと見た人すべてを驚かし、畏れさせたに違いない。

 しかし、それが何であるのか、どうして突然現れたのか、知る者はなかっただろう。

 かくして、望み通り、一つになったラーレと緑は、命の続く限り、離れ離れになることはなくなった。神様のいる場所へ――一族の願いは、天に届いたのだ。

 こうして、北の都クゼイは瞬く間に滅んだ。

 一方、緑の一族は、天まで届くほどの巨大な大樹となり、その形を変え、永久に生き続けるのであった。

                   ―― 第一部完 ――


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黒澤伊織@小説
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