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第一部 第二章 緑と花

 

 ずいぶん長い間、眠っていたせいだろうか。

 目が覚めたアスランは、窓から差し込む淡い光が朝のものなのか、それとも夕方のものなのかわからずに、しばらく寝床の中でぼんやりしていた。
 溜まった疲れはすっかり抜け、体中の筋肉は心地よく脱力している。

 そういえば、ここはどこだろう?
 そんな不安を感じたのは、しばらくしてからのことだった。
 
 どうして俺はこんなところにいるのか…。
 まだ眠りの中にあるような、鈍った頭を動かして、アスランはゆっくりと記憶を辿った。

 そうだ、俺は、迷いの森で眠気に襲われ、皆とはぐれてしまったのだ。いや、あれははぐれたというよりも…。

 夢か現か、ヤウズの勝ち誇ったような顔がアスランの脳裏に浮かぶ。そのヤウズの顔に、葡萄酒を差し出したジャンの顔が重なり――アスランの胸の中には、苦いものが広がった。

 馬の背で眠りこむなんてことは、今まで一度もなかったことだ。ということは、つまり、若旦那様からもらったぶどう酒、あれに何かが混ぜられていたに違いない。

 アスランは両手を顔に押し当てた。

 ジャンは、それほど彼のことが邪魔だったのだ。一人では生きて出られないという、迷いの森に置き去りにするほどに――。

 その後、アスランが目覚めると、そこに隊商の姿はなく、ただマクだけが所在なさげに佇んでいた。もちろん――と言うべきか、その背に積まれた荷物は、どこにもなかった。

 それだけではなく、よく見ると、マクの身体には何本も鞭で付けられたような傷があった。きっと、強引に連れていこうとするジャンに、抗ったに違いない。

 アスランは、その主人思いの馬を撫でながら、自分の懐を探った。期待したわけでもないが、金の入った巾着はなく、腹巻きに入れたはずの黄金の筒も、そこにはなかった。残されたのは、あの月の輝石の入った革袋だけ。一見、石ころにしか見えない、その輝石だけが、彼に残されたものだった。

 アスランは途方に暮れて、迷いの森を歩きだした。

 この森を抜けようという隊商は、ひと月に一つも存在しない。そんな助けをここで待つよりは、自分の足で歩いたほうがいいと思ったからだ。
 果たして、アスランとマクは、何日も、飲まず食わずで森をさまよった。そして、とうとう一歩も動けなくなったそのとき、視界を一陣の風が払い、あの一面の花の風景が彼の目の前に現れたのだ。

 そうだ、あの少女たちが、俺を助けてくれたのだ。

 アスランは、改めて見覚えがない部屋を見回した。
 部屋に見覚えがないはずだ。ここはギュネイの宿でも、クゼイの自分の部屋でもない、あの少女たちが今にも倒れそうなアスランを助け、あてがってくれた部屋なのだから。

 ようやく取り戻した記憶に安堵すると、アスランの脳裏に、自分を助けてくれた、あの少女の顔が浮かんだ。

 美しい、と言ってしまえるのなら、その言葉一つで、少女を表現するには十分だろう。
 きめ細やかな肌に大きく黒い瞳、それに、艶やかでなめらかな、腰のあたりまであろうかという長い髪。花びらのように、幾枚もの薄い布の重なった衣からちらりと見える、折れてしまいそうなほど細い手首。

 その姿は、見たことのない、美しい花の風景とあいまって、そこに佇む少女を、まるで精霊であるかのように見せた。
 いや、あるいは、本当にここは精霊の里で、俺はそこに迷い込んでしまったのかもしれないけれど。

 アスランは、少女を「姉様」と呼ぶ、たくさんの女の子たちを思い出した。あの、少女とそっくり同じ顔をした、大勢の女の子たち。
 ここは人ならざる者の里――。そうでも考えなければ、完全に同じ顔をした女の子たちが、この世に存在する理由が思いつかない。

 アスランはこめかみを押さえると、ため息をついた。あの光景のことを考えていると、頭がおかしくなりそうだ――。

 と、アスランは布団の中で寝返りを打ち――何気なく、その布地を見て、思わず声を上げた。

「これは、何だ?」
 アスランは飛び起き、改めて、自分が寝ていた布団をまじまじと見る。床に敷かれた布も、体に掛けられていた布も、絹でも麻でもない、アスランが知らない素材で織られている。それどころか、その布団の中身も、藁でも羽毛でもない、ふわふわとした、別の柔らかな素材が詰め込まれている。

 これは何という素材だろう?
 アスランは、手で何度も布をさすって、その感触を焼きつけた。
 滑らかさ、柔軟性、丈夫さ――この素材が何にせよ、今まで見たこともない、素晴らしいものであることには間違いがない。

 本当に、ここはどこなんだ?
 確かめたくなったアスランは、傍らに畳まれていた自分の衣服を、大急ぎで身につけた。それから少し考えて、同じようにそっと置かれていた、小石の入った革袋を腹巻に仕舞う。月の輝石。あの黄金の筒がなければ、ただの小石なのかもしれないが、それでもこれが唯一の財産なのだ。

 アスランは、戸口にかかった厚い布をよけると、外に出て、自分の寝ていた建物を振り返った。
 すると、それは建物というよりは、大きな岩をくりぬいたような住居であることが分かった。
 小さな窓も、戸口も、岩にくりぬかれた穴で、どうやってくり抜いたのか、その部分の岩肌は、道具で削ったとは思えないほど、なめらかだ。

 こんな様式の建物など、見たことも聞いたこともない。やはり、俺はどこか遠い国に来てしまったのか?

 アスランは、少し冷たい朝の空気に、体を震わせると、振り返ってあたりを眺めた。

 朝の薄い光が、あたりの景色をほんのりと照らし出す。白い霧が、視界にヴェールのようにかかり、遠くの景色はまるで見えない。
 霧のせいか、足元の柔らかな草も濡れて、革の靴に、その冷たさをじわじわと伝えてくる。

 どうやら、ここからは、目印になるような山も何も見えないらしい。
 アスランが不安になったそのときだった。ブルル――どこからか、聞き慣れた声が聞こえた。

 マクだ。

 ほっとするのと同時に、急に懐かしさがこみ上げ、アスランは迷うことなく霧をかき分け、音の聞こえる方向に進んだ。

「あなた、たくさん食べるのね」
 すると、霧の向こうから、楽しげな少女の声が聞こえてきた。

 あの少女だろうか?
 アスランは驚かせないように、足音を殺して、先に進む。すると、大きなマクの姿と、傍らの少女の姿が、霧の中から現れた。

 周りに生えていた草を、マクはもうすっかり食べてしまったようだった。しかし、それでもまだ腹が充ち足りないのか、甘えるように鼻を鳴らした。

「なあに? わかった、もう少し食べたいのね」
 少女は嬉しそうにマクの鼻面を撫でると、そのまま小さな手で地面を撫でるようにさっと動かした。

「あ…」
 一体、何が起きたのだろうか。
 目の前で起きた信じられない出来事に、アスランは思わず声を漏らした。
 その地面の、マクにすっかり食べられてしまったはずの短い草。その草は、少女が地面を撫でるや否や、ぐんと伸び、再び豊かな茂みになって蘇ったのだ。

 声を立てたアスランに、少女は慌てたように立ちあがり、振り返った。
 その姿は――正直、あの同じ顔のどれかは定かではない。けれど、その立ちあがった背格好からしても、その反応からしても、ここへ着いたときに初めて会った、あの少女だろう、とアスランは思った。

「誰?」
「お、おはよう。あの…」

 アスランは少女の前に一歩進み出ると、頭の中で言葉を探った。
 君は、草を操るのか? そう訊いてもいいのだろうか。

「…おはよう、ございます」
 おずおずとした口調とは裏腹に、少女の黒曜石のような瞳は、はっきりとアスランを見返した。
 その美しい瞳を見ていると、魂を抜かれるような気がして、アスランは少女から目を逸らした。

 やはり、彼女は人間ではないのだろうか――そう思ったそのとき、マクの後ろから、元気よく、小さな女の子が飛び出した。

「あっ! おはよう! もう大丈夫なの?」
 その女の子の顔は、改めて見ても、少し気味が悪いくらいに、目の前の少女とうり二つだ。

「ああ…おかげさまで。ありがとう」
 アスランはぎこちなく笑顔をつくった。そのつくり笑いを全く気にしない様子で、黒い目をくりくりさせながら、女の子はアスランを楽しそうに見上げた。

「ねえねえ、あなたは人間なんでしょ?」
「人間か、なんてまるで…」

 君たちが人間じゃないみたいじゃないか。
 その言葉をどうにか飲みこんで、アスランは曖昧に笑ってごまかす。

「こら、緑(リウ)?」
 女の子を咎めるように、少女は緑と呼んだ女の子の頭に手をやった。

「…君は、緑っていうの?」
「うん、そうだよ」
 問いに、緑は少女と同じ顔でにっこりと笑う。その頭を、少女は困ったような顔で、撫で続けている。

「緑ちゃんか。俺の名前はアスラン。アスランって呼んでくれ」
「アスラン? 名前?」

 緑は不思議そうに首をかしげた。
「アスランはどうして『俺』っていうの?」
「…それは、俺が男だからだよ。女の子だったら、『私』って言うだろ?」
「じゃ、アスランは男?」
「そうだよ」

 何を不思議がることがあるのだろうか。緑は、大きな瞳をぱちくりさせて、アスランを見つめ返す。しかし、言われてみれば、いままでこの里で男性を見かけたことがない。どこかへ出かけているのか、それとも、もともといないのか――?

「じゃあ…」
 アスランの思いも知らず、緑はマクの足の飾り毛をそっと撫でた。
「この子は男?」
「いや、マクは女の子だよ」
「女?」

 ますます不思議そうに瞳を瞬かせる緑に、黙って様子を見ていた少女が優しく言った。

「緑、そろそろ朝の火を焚いてちょうだい。大花(タイファ)様も起きるころよ」
「うん、わかった」

 緑は少女の言葉に素直にうなずいた。そして、もう一度アスランを見て、にかっと笑うと、元気よくどこかへ駆けだしていく。
 その後ろ姿を見て、アスランは思わず微笑んだ。

「かわいい子ですね。…あの、あなた方は姉妹なんですか?」
「え?」
「よく似ているから」
「…ええ。同じ母から生まれたという意味なら、そうなのかもしれません」

 あの女の子といい、少女といい、どうしてこんな奇妙な言い回しをするのだろう。それは、あの草を茂らせる不思議な力を持っているせいか? 彼女たちが、人間ではないせいか――?

 アスランは少しためらってから、開きかけた口を閉じた。

 ここがどこかはわからない。けれど、迷いの森の先にある、都から離れた里であることは間違いない。そして、そんなところに住む人たちは、詮索を嫌うかもしれない。あの不思議な力は気になるが、とりあえずは、ここで世話になるしかない身なのだから、何も触れずにいたほうがいいのかもしれない。

「……」
 少女は、アスランにどう接していいのか分からないというように、ずっとマクの毛並みを撫でている。
 アスランはできるだけ気さくに、少女に話しかけた。

「あの、そいつ、マクって言うんですけど…あ、それは会ったときに言ったか。えっと、マクヒア馬は、他の馬と違って力持ちで耐久力もあるし、そうだ。なんといっても、そのあごひげや足の飾り毛が可愛らしいでしょう」

 マクの話に、少女はやっと表情を和ませた。
「これは飾り毛と言うのね。…ええ、とても素敵です」
 少女の微笑みに、アスランはまるで自分のことを褒められたかのように、顔を赤らめた。

「正式にはマクヒア馬って言って…」
「マクヒア。それで、マクと言うのですね」
「ええ、少し、安直過ぎますか?」
「いえ、そんなこと」

 少女は少し打ち解けたように、マクの豊かなたてがみに指をからませ、はにかんだ。

 やはり、美しい。
 あまり近しくなってはいけない――そう思いながらも、アスランは少女に惹かれていくのを止めることができなかった。

「ええと、それで…」
 アスランは一つ咳払いをして、尋ねた。
「君の名前を、聞いてもいいかな?」
「名前、ですか」

 すると、少女は真顔に戻り、そんなことに何の意味があるのかという風に、小首を傾げた。

「私は、緑です。小花(サイファ)とも呼ばれますが…」
「緑?」
 今度はアスランが首をかしげる番だった。
「緑っていうのは、さっきの女の子の名前ではなくて…? それとも、たまたま同じ名前を?」
「いいえ、私たちは、みんな緑といいます。それが、あなたの言う「名前」というものなのかは、わかりませんが…」
「じゃあ、小花というのは…?」
「それは、そうですね…小さな緑たちを束ねる役目、という意味で…」

 アスランは、少女と同じ顔をした、たくさんの女の子たちの姿を思い浮かべた。
 彼女たちの全員が「緑」という、同じ名前だというのか? やはりここは…。

 ここまで聞いてしまったら、もう同じだ。
 ままよ、とばかりに、アスランは思い切って、目の前の少女に訊ねた。

「もしかして、あなたたちは人間ではないんですか? それなら、一体…」
「私たちは…」

 白い霧はだんだんに晴れ、少女の遠く、はるか向こうの稜線を、朝陽がうっすらと輝かせる。
 少女は、アスランの問いに、一旦言葉を切ってから、ためらいがちに答えた。
「私たちは、緑の一族です」


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黒澤伊織@小説
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