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第二部 第四章 大樹とアスラン

 「大樹…? 僕に話しかけてるのは、君は、呪いの大樹なの?」
「そうよ。呪いの大樹だなんて、呼ばれたくはないけれど…」

 アスランの驚きに、全く関心を示そうともせずに、そっけなく大樹は答えた。

「そんな、嘘だ…」
 アスランは地面に這いつくばったまま、顔を上げて遠い地上に開いた穴の向こうを見つめた。

 もちろん、そこから大樹の話している姿が見えるわけでもない。声のする方角も、どうやって大樹が自分に話しかけているのかさえ、アスランにはわからない。

 けれど、自分に声をかけて来る相手を、仮にでもそこにいると思わなければ、どこから聞こえてくるのか分からない声というのはとても不気味なものであった。

「呪いの大樹が、僕に話しかけてるだって? そんなこと…」

 にわかには信じられるものではない。けれど…。

 アスランは震える手を腰にやると、玩具の剣の柄に手をかけた。
 僕は、呪いの大樹をやっつけてやろうと、ここまでやってきたんだ。そう、この剣を引き抜いて、物語の中の王子様のように、悪い怪物に切りかかるんだ…。

 けれど、アスランは剣の柄を握ったまま、一体どうしたらいいか分からずにためらった。

 僕が腰に下げているのは、刃のない、玩具の剣だ。こんなもので、姿も見えない呪いの大樹を、どうやってやっつければいいんだ。

「その剣を、どうする気なの?」
 アスランの様子に気付いた大樹が、ため息が混じったような声で訊ねる。
「どうするって…」

 僕がこの剣を抜けないとでも思ってるんだな?

 アスランは馬鹿にされたような気分になって、背伸びして、思い切り剣を引き抜いた。

「この剣で、剣でお前を倒すんだ! そのためにここまできたんだからな!」
「…そう」
「そうだ!」
「…別に、構わないわ。そんなもので、私が切れるとも思わないけれど」

 諦めたようなため息をつく大樹に、アスランは引き下がれずに、剣を構えたまま凄んだ。

「ほんとだぞ! だって僕は世界で一番強い獅子王の息子なんだからな!」
「一番強い、獅子王? それなら、あなたも王になるの?」
「そうだ! だって、僕は王子だもの!」
「そう」

 剣の切っ先を震わせて必死に叫ぶアスランに、大樹は謎めいた言葉を吐き捨てた。

「それならあなたは、大地を分け、支配する者なのね。金を集め、権力をほしいままにし、人の生死すら決めつける者」
「え? …大地を分け? …えっと、それって、どういう意味?」

 大地が? 金が、何だって?

 大樹が並べ立てた、まじないのような言葉に、アスランは毒気を抜かれて目をぱちぱちと瞬かせた。

 訳がわからぬ様子のアスランに、大樹は苛立ったようにさらに言葉を並べた。

「どういうって、そのままの意味よ。我がもののように大地を切り分け、支配し、自らの土地だけが豊かであれと願う者。それが王だわ。あなたはまだ子供なのに、そんな恐ろしいものになる気なのね」
「えっと、君…ううん、お姉さん…」

 相手が本当に呪いの大樹なら、自分よりもずっと年上だろう。

 そう思ったアスランは、急に冷たくなった声に慌てながら、おそるおそる呼びかけた。

「もしかして、この髪飾りは、お姉さんのものだったの? それを僕が取ってしまったから、だから怒ってるの? それならごめんなさい、これは返すから…」

 大樹に怒られる理由を他に思いつくことができず、そっと髪飾りを地面に置こうとするアスランに、大樹の声はますます冷たく言った。

「いいのよ。それはあなたにあげるわ。私にはもう必要のないものだから…」
「でも…」
「いいの、あなたが持っていってくれた方が、嬉しいわ」

 そう言う割には、ちっとも嬉しそうではない声に、アスランはためらいながらも、髪飾りをポケットにおさめた。
 その通りにしないと、大樹がもっと怒りそうな気がしたからだ。

「それでいいわ。…ありがとう」
 アスランが髪飾りを仕舞うのを見届けると、大樹は少し怒りを緩めたような声で礼を言った。

「きっとあなたのいるその場所には、他にも色々な珍しいものがあるはずよ。もし、あなたが欲しいのなら、すべて持って行ったっていいわ」
「ううん、別に何かが欲しくてここへ来たんじゃないんだ」

 アスランは慌てて首を振った。

「ただ、偶然この髪飾りを見つけて…母様にあげたら喜ぶかなって思って、つい…」
「母様に?」
「うん。お姉さんのものだって知らなかったから…ごめんなさい」
「…いいえ」

 それ以上の言葉が口から出ることを拒むように、大樹は短く言った。しかし、その言葉はどこか物憂げだった。

 アスランはようやく立ち上がり、もじもじと手の剣をいじった。それから見えない声をうかがうように、静かにそっと剣を鞘に収める。

「あの、ごめんね。僕、お姉さんのこと、誤解してた」
「…どんなふうに?」
「えっと、呪いの大樹って言うくらいだから、もっと悪い人かなって…」

 この大樹が悪いものならば、物語の中の悪のように、アスランに襲いかかってきただろう。

 しかし、そんなことはせず、自分の髪飾りまで持っていって良いなどと言う大樹は、アスランがどう考えても悪いものとは思えなかった。

「私は人じゃないわ」
「うん、そうだね。えっと、じゃあ…悪い大樹?」
 アスランは声の機嫌をうかがうように言いなおす。
「…何でもいいわ」
「うん…」

 ほうっとため息をつくように、大樹が揺れて葉をざわめかせる。
 ざざざと地上を風が通り過ぎる音を聞きながら、アスランも少し黙って空を見上げた。

 大樹のお姉さんは、何だか本当に悪い人じゃなくて、いい人みたいだ。
 風に運ばれてきた綿毛がそっと地面に落ちるように、アスランの胸の中に、ふっとそんな思いが浮かんだ。

 あの意地悪な言葉も、冷たい言い方も、なぜだかわからないけれど、わざとそんなふうにしているみたいだ。

 わざとそうしていないと、そう、まるで…。

 アスランの胸の中に、別れ際のメルヴェの表情と大樹の声が一つに重なるようにして、ぼんやりと浮かんだ。

 わざとそうしていないと、まるで、涙が止まらなくなってしまうかのように。
 メルヴェが微笑みの中に悲しみを隠したように、この大樹は冷たい振る舞いの中に悲しみを隠そうとしているのかもしれない。

 アスランはポケットの中の髪飾りに、そっと指先で触れた。

 お姉さんは、きっと悲しいんだな。

 その悲しみの理由はわからなかったが、どうしてかその憂いの音色に共鳴したアスランも、何だか悲しくなってしまってそっと俯いた。

「…ごめんなさい。少し、意地悪すぎたわよね」
 大樹の声が小さな声でアスランに謝った。しかし、その声はアスランではなく、誰かほかの人に向けられているようだった。

「私はまだ、許せないのね」

「許すって、何を?」
「…人間を、よ。私たちを追い詰めた…」

 強い風がさらっていきそうなほどの小さな声で、二人は会話を続けた。
「それって、誰か、僕の知っている人のこと?」
「いいえ。だって、とっても昔のことだもの。どうしてそう思うの?」
「それは…」

 アスランはつばを飲み込んで言った。
「お姉さんが、王様が嫌いみたいだったから…」
「嫌いよ」

 大樹の声は強くきっぱりと言った。

「私にはわからないもの。どうして大地を支配する者が必要なのか。どうして王は王を名乗るのか。ねえ、王になるという、あなたなら知っているの? あなたはなぜ王になるの?」
「なぜって…」

 矢継ぎ早の質問にうろたえるアスランに、大樹は畳みかけるように訊ねた。

「あなたの中に王たる資質があるのかしら? それならば一体それは何だというの? あなたは何のために王になるの? あなたの支配する大地を広げたり、そこにある物を好き勝手するため? それともきらきらした金粒を、できるだけたくさん集めて、豪華な暮らしをするため?」
「僕、僕は…」

 アスランは目を白黒させながら精一杯考えた。

 アユディスの王宮にはたくさんの金がある。豪華な衣装も、首飾りも、王冠も、そこいら中がきらきらとまばゆいほどの光を放っているし、贅沢な食べ物だって、美しい絵画だって、無いものはないのじゃないかと思うくらい、たくさんの物が溢れている。

 それに王は大地を支配するものだし、それ相応の権力だって、金だって、何だって手に入れられる。

 けれど、それが何のためなのか、アスランに王の資質があるのかと聞かれても、アスランは到底自分の中にその答えを見つけられそうになかった。

 考えこんでしまったアスランに、大樹は独り言を言うようにつぶやいた。

「ごめんなさい。まだ小さなあなたに、こんなこと言うべきことじゃないもかもしれないわ。私はただ、どうしてなのかわからないの。どうして人間が、大地に恵まれたものを口にするだけでは生きていけないのか」
「うん…」

 また、強い風が吹いて、大樹を、森全体を撫ぜていく。その風に、樹の枝にかろうじてつかまっていた森の木の葉たちが、空を舞い、そしてその葉の何枚かが、地上の穴から申し訳程度にアスランの頭上に落ちて来る。

 そのひらひらと舞い落ちた黄金色の葉を手にとって、アスランはぽつりとつぶやいた。

「もう紅葉も終わりだね。ここの冬はとても寒いって聞いた」
「そうね、もうじき…」

 大樹は唯一緑の葉の茂ったその身を震わせるように、枝を揺らした。
「もうじき、こんなふうに北の海から吹く風が止むと、今度は逆に陸から海に向かって嵐のような風が吹きすさぶの。その風が、この地の冬の始まりの合図よ」
「…そうなんだ」

 アスランは身体を縮めるようにして膝を抱えると、一つ身震いをした。
「でも、もうアユディスの冬くらいに寒いや」
「そうね。…あなたも早くおうちへ帰るといいわ」
「でも…」

 アスランは小さく首を振った。
「ここ、出口がないみたいなんだ。上まで登るなんて、僕には無理だし」
「そんなことしなくても、出口なら、ほら、そこに…」
「え? どこ?」

 大樹の驚いたような声に、アスランはきょろきょろとあたりを見回した。
「ほら、あなたの後ろの…そう、その厚いツタをめくって…」
「この穴?」

 そこにはアスランがやっと通れそうなくらいの、壁が裂けてできたような穴が開いていた。しかし、アスランが中を見通そうにも、真っ暗で、どこまで続いているのかさえ分からない。

「大丈夫よ、その先は大きな道のようになっていて、森の外に出られるようになっているから」

 アスランの胸の不安を見通したように、大樹は優しく教える。
「強い王になる者なら、怖くないでしょ?」
「怖がってなんかいないよ。えっと…」
「なあに?」

 アスランは背筋を伸ばして立ち上がると、空を見上げて言った。
「そういえば僕、名前も言ってなかったよね…僕はアスラン。皆は小アスランって…」
「アスラン?」

 一瞬、大樹が息を飲むような気配がして、アスランはまた何かおかしなことを言ってしまったのではないかとどきりとする。

 しかし、アスランの心配をよそに、次の瞬間には何もなかったかのように、大樹は落ちついた声で言った。

「…そう、わかったわ。それなら、さよなら」

「さよなら、じゃないよ」
 アスランは驚いて言った。

「今度はお姉さんの番だよ。お姉さんの名前は、何て言うの?」
「…私の名前なんて、聞いてどうするの?」
「どうするのって…」

 変なことを言うんだな、とアスランは首をかしげた。
「僕が名乗ったんだから、お姉さんの名前も教えてよ」
「そうね…」

 大樹は考えるようにつぶやき、ややあって、その言葉一つ一つを確かめるように言った。

「今の私に名はないわ。…そう、かつてはあったけれど、その名を呼ぶ人はいなくなってしまった。だから、私にはあなたに教えてあげられる名前はないの。ごめんなさいね」

「名前がないなんて、変だよ」
 アスランは大樹に抗議するように言った。

「名前は誰だって持ってるよ。僕の馬だって、ここに咲いている花だって。それなのに、お姉さんに名前がないの?」
「そうよ」

 声は何かを懐かしむように、憂いを帯びた音色で言った。

「もう私を呼ぶ人は誰もいないもの」
 悲しみの色を宿したまま、しかし声はきっぱりとアスランの言葉を断った。

「おうちの人が心配しているわ。あなたの馬も、もう帰ったはずよ。さあ、その穴を抜けて、早く帰りなさい」
「馬? マクのこと? よかった、マクはちゃんと帰れたんだ…」

 ほっと胸をなでおろすアスランに、なぜか大樹はますます悲しみを募らせたようだった。

「そうよ。だから…」
「ねえ、お姉さん」
「なに?」

「僕、お姉さんに聞かれたこと…王様や、人間のこと、もっともっと勉強して、答えられるようになるよ。そうしたら、またここへ来てもいい?」
 たどたどしく、一生懸命に、アスランは大樹に訊ねた。

 せっかく知り合えたのに、これでお別れなんて寂しい。もし、大樹がいいと言うのなら、アスランはまた大樹と話してみたいと思ったからだ。

 しかし、大樹はアスランの頼みをはねつけるようにきっぱりと、けれどどこか憂えるように言った。

「いいえ、もう来ないでちょうだい」

「どうして? 僕、きっと…」
「お願いよ、もう、これ以上…」

 その先の言葉はアスランには分からなかった。けれどやはり、大樹の悲しみだけは、アスランの心に直接響いて伝わってくるようだった。

「…わかったよ」
 アスランはしっとりと冷たい、小さな穴に手を置いた。
「それじゃ、さよなら。…お姉さん」

 四つん這いになってやっと進めるほどの穴の中をに、アスランはゆっくりと消えていく。

 そのアスランの姿が暗い穴に消えていくのを見計らったように、大樹はぽつりとつぶやいた。

「…名が同じあなたは、どこかあの人に似ているかしら」

 大樹が再びため息をつくように身を震わせると、その天まで届きそうな雲の上の枝から、疲れた青葉がはらはらと舞い落ち、風に運ばれて、ネア・クゼイの町に雪のように降り積もった。

 強い風をその身に受けて、静かに葉を落とすその大樹の姿は、まるでとめどなく涙を落とし泣き続ける少女のようであった。

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黒澤伊織@小説
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