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第二部 第三章 大樹の底

 どのくらい、気を失っていたんだろうか。

 アスランは目をあけると、遥か高い場所にある、ぼんやりと光の射す穴を見つめた。

 その空ほど高い場所にある穴から、自分は落ちてしまったのだろう。
 アスランはぼうっとしながら考えた。

 地上に残されたマクはどうしただろうか。僕が落ちたことを、屋敷の皆に知らせに戻ってくれただろうか。

 アスランはおそるおそる身体を起こす。すると、自分の身体の下にある、ふわっとした分厚い苔に触れた。

 どうやらこの苔がクッションの役割を果たしてくれたおかげで、アスランは助かったようだった。
 けれど、落ちた時にどこかに引っかけたのだろう、服の袖の部分が破れ、アスランの腕には小さな擦り傷が出来ている。

「痛い…」
 アスランは口をへの字に曲げて、腕を押さえ、うらめしく天井の穴を見つめた。

 こんなところで怪我をしたというのに、傷を消毒してくれるミネはおらず、それどころかアスランは一人きりだ。

 傷から悪いものが入って、死んじゃったらどうしよう。

 薄暗い森から、さらに暗い穴の中で、ぎゅっと腕を押さえ、泣き出しそうになりながら、アスランは目を凝らして辺りを見回した。

 空の光を見つめていたからだろうか、アスランの目はその暗さに慣れずに、何も映しはしなかった。

「暗いのなんて怖くないよ、僕は誇り高きアナトリアの…」
 自分を勇気づけようとつぶやいた言葉に、アスランはますます心細くなって、ぎゅっと自分の身体を抱きしめた。

「母様…ミネ…」
 もうアスランは限界だった。目には涙が溜まり、あと一つ、瞬きをすれば、その涙は地面に転がり落ちてしまいそうだ。

 しかし、そのとき徐々に暗闇に慣れたアスランの目に、周りにあるものの輪郭がぼんやりと映り始め、アスランはごしごしと目をこすって顔を上げる。

 そしてはっきりとその目に映ったその見覚えのある風景に、アスランは泣き出しそうになっていたことも忘れ、驚きに思わず声を漏らした。

「ここは…?」
 アスランの高い声が、周囲に透明にこだまする。

 ここはどこなのだろう。

 そこはまるで地下につくられた部屋のような空間だった。
 しかし、それもレンガのようなきれいな長方形の石が、壁のようにいくつか並んでいることから部屋だったのではないかと察せられるだけで、もともとの部屋の様子などは微塵も残っていなかった。

 アスランの後ろの崩れたような壁はツタに覆われ、目の前の壁は完全になくなって、地上にそびえる大樹が伸ばした大きな根が、がっちりと大地を掴んでいる。

 しかし、アスランを驚かせたのはそんな光景ではなかった。
 その大樹の地下、大樹の底とでもいうべきその空間は、太陽の光も届かぬような、暗く、湿った場所だった。

 そんな場所にも関わらず、今驚きで見開かれたアスランの目には、天国かと見紛うほどの、素晴らしく美しい花畑が映し出されていたのだ。

 どうしてこんなところに、職人が手をかけたような花畑があるの?

 アスランは呼吸をするのも忘れて、そっと一つ瞬きをすると、目の前に咲く花にそっと触れた。

 今咲いたばかりかという、瑞々しいその花は、アスランの手に水滴を一つ落として、可憐に揺れる。

 一面に咲き誇るその花の色は、光になど照らされなくとも、アスランの頭の中に色とりどりに、鮮明に映し出されていくようであった。
 この花は、母様が大好きな花だ。

 アスランはこの大樹の底一面に、まるで絨毯のように咲き誇るこの花の名前を知っていた。

「ラーレの花だ…」
 どうしてこんなところに、こんなにたくさん咲いているのだろう。母様の庭にさえ、こんなに美しく咲いてはいなかったのに。

 アスランは不思議なその風景に、屈み込んだまま、しばらくラーレの花の絨毯をぼんやりと見つめた。

 綺麗な花だ。

 特にこの花が好きなメルヴェが、たくさん植えさせたのであろう、アユディスの宮殿の庭に咲いていたものよりも美しいラーレの花を、アスランは懐かしい気持ちで眺めた。

『お花にはね、太陽の光と、お水が必要なのよ。それから、たっぷりの愛情もね。そうしないと、お花は咲いてはくれないのよ』

 アスランがネア・クゼイに発つ前の日も、メルヴェは美しい庭を眺めながら、いつもと同じ言葉をつぶやいた。

『ふうん』
 大好きな母の視線を花に取られてつまらないアスランは、メルヴェの気を引くためだけに、口を尖らせて見せた。

『花なんか育てたって、何にもならないよ、母様。戦に行けば、花の世話なんかできないし』
『そうね』

 その言葉に、メルヴェはアスランに顔を向け、少しだけ笑った。
『さすが、獅子王様の息子ね』
 いつもの微笑みとは違い、目の前のメルヴェの微笑みには、どうしてか陰があった。

 けれど、アスランはそれに気付かぬふりをして、思い切り玩具の剣を振り回した。

『そうだよ、母様。僕が大人になったら、獅子より強くなってみせるよ! 母様と離れるのは寂しいけど、でも帰ってきたら、すごく強くなってるから楽しみにしててね』
『頼もしいわ』

 メルヴェはアスランをじっと見つめてから、再び花に視線を戻した。
『…でも』
『なあに?』

 今日の母様はいつもと違う。

 アスランはその頬笑みにメルヴェが隠そうとしているものを知って、わざと無邪気ない瞳をメルヴェに向けた。

『…何でもないわ、アスラン。この花をね…』
『花?』

 アスランは剣を振るのをやめ、メルヴェの見つめる先のラーレの花に目をやった。

『そうね、アスランがとっても強くなって、戦が起こらないようになったら…』
『うん』

 母様は悲しいのだ。僕が、アユディスを離れてしまうから。けれど、僕に涙を見せないように、ああやって微笑んでくれているのだろう。

 そんなメルヴェの気持ちを思うと、アスランも急に寂しさがこみ上げて来て、玩具の剣を投げ捨てると、ぎゅっとメルヴェの服の裾を掴んだ。

『アスラン…』
 メルヴェはアスランの頭を、薄いてのひらで一つ、撫でた。
『…もし、戦がなくなったら、そうしたら、草原を私の好きな花で、ラーレの花でいっぱいにしてほしいわ。…どうかしら、小さな未来の王様? そうしたら素敵だと思わない?』

 そんなことしなくたって、草原には野の花がたくさん咲くよ、母様。

 そう言いかけた言葉を、アスランは顔を俯かせると、ごくんと音を立てて飲み込んだ。

 草原に咲く野の花ではなく、この美しく儚いラーレの花でなければ、悲しげなメルヴェを微笑ませることはできないことをわかっていたからだ。

『うん…母様が素敵だっていうなら。僕、そうしてあげる』
『ありがとう、アスラン』

 そう言って、メルヴェはアスランに微笑んだ。

 その微笑みが例え悲しみを隠すものであっても、メルヴェの笑った顔は、アスランが知るどの笑顔よりも素敵だった。

 だから、アスランもメルヴェににっこりと笑った。そして、目の前で自分だけに向けられたその上品な微笑みを、アスランは目にしっかりと焼きつけた。

 父様がまた無事に戦から帰ってきて、そして僕がアユディスに帰ったら、母様はきっとまたこんなふうに美しく笑ってくれるだろう。アスラン、お帰りなさい、と言って。
『約束する』
『ええ』

 今、目の前に広がったラーレの花は、まだ離れてひと月も過ぎていない、宮殿の生活を、優しく美しいメルヴェを、雄々しく戦に行く大アスラン王を、アスランの脳裏にまざまざと蘇らせた。

「母様、父様…」
 その遠く懐かしい幻想から現実に戻り、アスランは途方に暮れて、小さな声でつぶやいた。

 しかし、当然のことながらアスランの言葉に応える者はおらず、それどころかこの場所にアスランが一人であることを思い出させるように、大樹の底は冷たく澄んだ音で小さな独り言を響かせる。

「どうにかして、ここから抜け出さなくっちゃ…」
 アスランは胸の中に生まれた小さな不安をかき消すように、わざと声に出して言った。

 しかし、その声も閉じた空間に寂しく響いて、そしてまたしんと静かになる。

 僕が、自分で出口を見つけなくちゃいけないんだ。

 アスランはできるだけ落ちついて、周りの壁をたどり、出口を探す。しかし、厚いツタに覆われた壁も、冷たい地面も、どこもアスランにここから這い上がる術を教えてはくれない。

「このツタから、登れないかな…」
 しかし、ぎゅっとアスランの手が掴んだツタは、その体重に耐えかねてぶちぶちと切れ、どうにも使い物になりそうになかった。

「どうしよう…」
 地面を埋め尽くす花につぶやいてみても、花が答えるわけもなく、忘れていた腕の擦り傷もずきずきと疼くように痛み始める。

 そのとき、アスランの目に何かきらりと光るものが映った。
「…あれ、今…?」

 その光るものを探して、アスランはラーレの花をかきわけた。

「これは…」
 アスランはきらきら光を放つものを指でそっとつまみ上げ、じっと見つめた。
 それは、見るからに高価そうな、金の髪飾りだった。
 その金の地に装飾として、真っ白に輝く小さな石で描かれた、馬の絵が埋め込まれている。

 長い年月、花の中に埋もれていたのだろう、泥に汚れてはいるが、アスランが千切れた袖で泥を落とすと、再びその輝きを取り戻し、きらきらと光を反射した。

「これは、マクヒア馬みたい…」
 金にマクヒア馬の像が埋め込まれた髪飾りなんて、とっても価値があるものだろう。もしかしたら王家の、滅びた都の妃様が持っていたものかもしれない。

「ここに都があったっていうのは、本当だったんだ…」
 アスランは髪飾りの泥をきれいに拭うと、改めてその美しい細工に嘆息した。

 こんなに綺麗なものだもの、母様にあげたら、きっと喜ぶに違いない。
 そう思ってから、アスランは出口のない洞窟を見回して、ため息混じりに言った。

「ここから出られたら、の話だけど…」
「ここから出たいのなら、そんなものを手にしていても無駄よ」
「誰?」

 アスランのほかには誰もいないはずの洞窟に突然響いた、少女のような声に、アスランは腰を抜かして花の中に倒れ込んだ。

 そしてその声の主を探すように、きょろきょろとあたりを見回すが、周りに人影らしいものはない。

 アスランは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、おずおずと小さな声で呼びかけるように言った。

「だ、誰かいるの…?」
「誰もいないわ」

 声はあっさりと答える。

 アスランはその答えに、目をぱちくりさせて聞き返した。
「誰もいないってどういうこと? 僕をからかってるの?」

「からかってなんかいないわ」

「それなら、どういうことだよ」

 淡々と話す声に、アスランは恐ろしいような気持ちになって、けれどそれを気取られぬように虚勢を張って叫んだ。

「どういうことかって聞かれても、その通りよ。そこにはあなたしかいないわ」

「それはおかしいだろ。だって、じゃあ僕に話しかけてる君は誰なのさ」
「ああ…」

 声はやっとアスランの求める答えに気付いたかのように、声を上げた。

「人間と話すのは久しぶりだから…。あなたは私が誰か知りたいのね」
「そうだよ、それ以外にどういう意味があるっていうんだよ」

「ごめんなさい」

 声は、少し柔らかい音色に変わって言った。

「でも、誰と聞くのは間違いよ。だって私は、あなたの目の前の大樹なのだから」

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黒澤伊織@小説
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