驚愕の邪馬台国・九州王朝と伊豆那姫
〈石體さんと伊豆那姫をめぐって〉
小城で「石体さんを語ろう!」で石体さんと宇佐神宮の元宮・大元神社について二年間の空白を置いて調べた事が大きな契機となりました。というのも宇佐を調べた事から偶然、四国、とくに土佐に大元神社群を見つけたのが次なるステップへの始まりでした。
宇佐はもともと「水沼の君」磐井の治める所で、神功・崇神の九州侵攻で久留米・高良大社から宇佐へ「九州総社」が移されてしまいましたが、九州では二社ほどしか確認出来ない、その元宮である大元神社が海を隔てた土佐を中心におびただしい数を発見したからです。しかもそれだけではなく九州王朝三代(孝霊・孝元・開化)の孝霊天皇を祀る仁井田神社も多数祀られていることを見つけるとここで「九州王朝の見方」ががらりと変わってしまいました。なぜなら神功と開化が同世代とすると孝霊は開化の祖父にあたり三世代遡ることが出来ることになり、古い時代の九州王朝の姿を残していることにもなるからです。
しかし、さらに調べると後に大変な女神・『伊豆那姫』と出会うことになるのです。実は、愛媛大ミュージアムの吉田広氏の「青銅器祭祀の文化圏」が対馬-北部九州-四国、出雲と連なる事を報告されていました。(吉備の青銅器文化: 2011)また宗像で氏の講演「青銅器を帯びたムナカタの弥生人」(2014)があり冒頭「吉田でございます。愛媛松山から参りました。邪馬台国に統属されたという三十国、おそらくはその女王に属した国の一つから来たと思っております。」と意味深なこと述べられていたのでした。
では、古代の四国とは、いったい何だったのでしょうか?どう考えればいいのでしょうか?神社考古学や系図学では九州は研究も進みある程度分かって来ており、さらに加えて中四国がおぼろげながら分かってくるとこの問いに大きな手がかりを教えてくれることになります。(青銅器祭祀圏図参照)そして、その結果は驚くべきものでした。
〈海神神社の伊豆山〉〔対馬〕
「青銅器祭祀圏と伊豆那姫」(上図)で一目でヒントになりそうなのが「対馬」です。何故?と思えるほど西に位置しています。ここには馴染みのない「伊豆那姫」を祀る神社(赤色鳥居)があります。そして対馬-北部九州-土佐と続き彼女と「青銅器文化圏」と伊豆那姫とは微妙な一致点があるのです。そこで彼女を調べる事になります。この時既に予想はたてていた訳ですが、対馬では”伊豆山”を遙拝する対馬国一宮の海神神社(旧中社)は有名であり、豊玉姫命と夫の彦火火出見命と子の鵜茅草葺不合命、宗像神 道主貴神(豊玉姫)を祀っていることが知られています。”伊豆山”は「斎き祀る」から来ていると云います。豊玉姫が”伊豆那姫”とも呼ばれる所以です。
因みに北部九州では、佐賀県基山町にある何の変哲もない小さな祠「伊都那社」があり経津主命(石体さん、彦火火出見)を祀ることでも分かります。ここは数年前に調査していました。丘陵地にあって殆ど知られていない、社殿を持たない小さい祠ですが今となっては名を留める重要な神社です。
ところが、よく調べるとすぐ東に荒穂神社御仮殿があり、開化も使う菱形神紋を持つ”神社の倉庫”がありました。解説によると、上宮が基山山頂、本宮が荒穂神社(現在宮司不在)、下宮は御仮殿で「鎮斎隈と云って松に囲まれ神を祀る地であった」とする。夫々の配神を見ると伊都那社とは恐らく荒穂神社の「摂社」であった様に思われる。すぐ西にも宮地獄神社がある。
荒穂神社の祭神も、他に筑紫野市と嘉麻市にあるが、ニニギはこちらに来て加えられたようで、筑紫の荒穂は、穂瓊々杵命、豊玉姫 相殿 五十猛大神だとされている。本来は五十猛(山幸)だとされている。ちゃんと豊玉姫も祀られているので、”伊豆那彦・伊豆那姫”でよかろう。つまり対馬の海神神社が元宮と思われる。因みに基山は「旧対馬領」であった。ただしそれは秀吉の時代である。しかし古代にすでに交流があったと見たほうが良いのかもしれません。
又「武装海賊」キャプテン・オオハタ(大幡主)の孫娘らしく海近くに祀られることが多い豊玉姫ですが、内陸部の正八幡にすこぶる立派な朱塗りの彼女らしい神殿があります。義理の子ウマシマジ(物部)の繋がりでしょう。
こうして吉田氏が述べる「青銅器祭祀文化圏」とこの女神が重なる毎にいよいよ面白くなってきます。なぜなら彼らは邪馬台国第二世代の人物達だからです。そしてそれ以上に大事なことは「九州を超えてしまう」ことになり、従来の「九州王朝」の概念が大きく変わってしまうからです。後は、それが何処までどの程度の広がりをもって言えるのかが問題になってきます。
〈遠賀川の伊豆神社〉〔北部九州〕
彼女を選ぶ理由は、福岡県(遠賀川河口域)、そして四国、出雲、若狭、熱海・伊豆、石川、秋田、紀伊へと広がり「伊豆山と伊豆那姫」は、全国(特に西日本)に名を変えて広がって祀られていることが知られており、名前の多い大国主の妃でもあることからも、女神にしては多くの名前を持っていて各地域で名を変えて祀られていたからですが、それだけ支持を得ていたと言うことにもなるでしょう。
そして調べが進むとその結果は予想もしなかった結論へと導かれる事になります。以下は各地方の「豊玉姫一族」を外観したものです。本来なら二人の夫、彦火々出見と大国主を加えるべきですが、膨大であることから省略しています。
〈出雲と八上比売(蛤貝比売命)〉〔出雲〕
豊玉姫は夫が二人あり彦火々出見と大国主で大国主は再婚相手で、事代主を連れ子に再婚しています。山幸は、離婚時に可愛い事代主との別れを大いに悲しんだと云われています。つまりこの二人は、義理の兄弟と云う訳である。
この話は、出雲神話に出てきますが「木俣神は、大穴牟遅神と因幡の八上比売の間の子だが、八上比売(田心姫=豊玉姫)は大穴牟遅神の最初の妻であった。しかし須勢理毘売(市杵島姫、阿蘇家)を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて木俣神という。またの名を御井神(みいのかみ)と云う」と伝える。荒神谷遺跡は御井神社のすぐ東にある。
ただ「刺し挟んだ」と云うのは、そのままを解釈した間違いであるらしく、出雲地方では還暦を「木俣年」と云うので、おそらくは連れ子した幼い木俣神を「年配の人たちがお世話した」と云うのが本当の所のようだ。この木俣神とは良く知られた事代主のことである。豊玉姫は出雲では、八上姫、蛤貝比売命(うむがい)とも呼ばれている。こうしてみると出雲(伊豆?!)は『女王に属した国』ということになろう。
(※木俣神には異説がある。)
出雲の石人・石馬!
実は驚いたことに、出雲にも、有名な磐井の石人・石馬そっくりの「石人・石馬」が出土する。本来は石馬谷古墳にあったという石馬(大明神)だが現在は、天神垣神社の保管庫にあると云う。(通常は非公開)又今回初めて提供いただいた「石人」と思われる石像が出土している。
ところが、この神社は「少彦名命」(御井神・事代主)を奉斎している。つまり八上姫の息子なのである。これら「遺跡」は正に伝承を裏付けている。
この磐井との関係は、既に”水野予想”として九州との関係に言及されていたものだが本稿は一定の論証になっていると思われる。(※既に言及したとおり磐井は、九州王朝・大彦命の直系)考古学では中々はっきりしなかった『親族関係』が具体的に判明するからである。謂わば『本家・分家』の関係である。このことは潤地頭給遺跡(福岡県糸島)2002年碧玉、滑石、水晶、瑪瑙といった玉類の他、「山陰系の土器」が出土しているが、これらも説明が付くことになる。
また、出雲には、彼女の弟の武夷鳥 (飯石神社:雲南市)が居たことも忘れてはならないでしょう。彼については、崇神六十年七月、天皇が「武日照命(武夷鳥命)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って、出雲振根(武夷鳥の十一世後裔:諸系譜)が筑紫国行って留守中に、弟の飯入根(独断で)は皇命をうけて弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の鸕濡渟(うかずくぬ)につけて、神宝を貢上してしまった。その結果出雲氏に内紛が起き、当時の当主の出雲振根が誅殺されたと云う逸話は有名である。
果たしてどんな神宝だったのでしょうか?!崇神六十年と言えば「九州王朝最後の戦い・武埴安彦の乱」から既に半世紀経た時代である。まだ出雲では不穏な煙が燻っていたのでしょう。しかしこれは「服属」伝承でしょう。又、武夷鳥命のその後については、以下の二つ鷲宮神社の伝承が伝わっている。東国に移動したようだ。
・鷲宮神社(天穂日命〈豊玉彦〉 武夷鳥命 大己貴命)旧県社 埼玉県久 喜市鷲宮
「崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した。」
・鷲宮神社 天日鷲命 別名を天日鷲翔矢命 栃木県栃木市都賀町家中
「日本武尊の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。」
出雲山
湯梨浜町東郷湖畔にある出雲山の名は、当神社の祭神である下照姫命が度々出雲を懐かしみ、この地から出雲の方角を眺められたことから「出雲山」と呼ばれました。(倭文神社社伝)
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