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画家/美術家/D型色覚 制作の手がかりや絵について書いてます。 kurosakayu.com

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最近の記事

個展「ポリフォニックな眺め」に寄せて

私は「色弱」なので、絵を描くにあたってどう色を捉え、扱うのかを考えています。 ここ1年半ぐらいは「自由」に色を扱うことについて、試行錯誤を繰り返しました。 その過程で、色を「扱う」のではなくて色に「扱われる」ような描き方をすれば良いのではないかと思い至りました。 前者は画家によって色が動くのに対し、後者は色によって画家が動くといった態度です。 このような態度を実践するために、水彩絵の具を画材に採用しました。 今まで私は油絵の具での仕事が中心でしたが、油絵の具はその渇きの遅さ故

    • ステートメント 2024.0115

      私は「色弱」だ。 当事者研究として、そして私が自由になるために絵を描いている。 「色弱」は絵を自由に描くことはできない。 なぜなら人間がコントロール化に置く色はほぼ全て「色弱」以外の人々が作りだしたものだからだ。 コントロールの象徴である色名は「色弱」の感じ方を無視した名前が付けられている。 「色弱」以外の人々が作った色の世界で育つことで無意識のうちに先入観を植え付けられ、矯正されていく。 赤を見てこれは赤だと躊躇なく言えないぐらいには私の感覚も既に塗り替えられて

      • 石原図について

        1921年から2002年度まで学校用色覚異常検査表として使用されてきた「石原式検査表」(医師の石原忍が徴兵検査用に1916年製作)を参照しつつ、私の身近な風景である無数の石が転がる磯と重ね合わせることを試みた。 石ころのような楕円形を私が近しいと感じる色の領域内でひとつも同じ色にならないようパレット、または画面内で調色しながら描いていった。 色の問題を扱っているので余計な質をできるだけ排除しつつも、石ころであることも意識に留めながら描画を行った。 主に黄緑/オレンジ、焦茶/

        • 緑色のネコ

          トップの画像は東スポWEBの記事で見た緑色の毛を持つネコ。 「自然の奇跡」との見出しがついているが、私にとってはごく「普通」のネコに見える。 以前どこかで書いたかもしれないが、私は緑色のイヌやネコがいると思っている。 多数派色覚でいうところの茶や緑や は私にとって明確な違いがないぐらいとても近いところにあるから、茶のネコもいれば、緑のネコもいる。 私にとってはこれが「普通」だ。 一方は「奇跡」で一方は「普通」。 色の感じ方が違うことでこんなに差が出るのだという例としてとてもわ

          個展「眺めと見分け」に寄せて

          「紅葉を楽しむ」ときにはなにを楽しんでいるのだろう。 こんな話題を多数派色覚者と「色弱者」の両方に出してみて話を聞いた結果、多数派色覚者は主に鮮やかに色づいた葉の「普段との違い」を楽しんでいるようだ。 つまりこれは「見分け」の楽しみといえるだろう。 対照的に私を含めた「色弱」はそもそも紅葉などなにもおもしろくないという意見や、紅葉を「普段との違い」で楽しむのではなく、普段と変わらず「緑を見て癒される」ような楽しみ方をするのだ。 こちらは「眺め」の楽しみとしたい。 紅葉を例に

          個展「眺めと見分け」に寄せて

          ステートメント 「色弱」の画家として

          私はいわゆる「色弱」です。 細かく言えば、D型色覚(2型2色覚)、あまりいい言葉ではありませんが緑色盲とも言われています。 私は絵を描くことが好きですが、「色弱」であることは「ふつう」に絵を描くことがとても難しいと感じます。 例えば絵の具に書いている色名は私とは違う「ふつう」の人が、同じ「ふつう」の人に伝えるために名付けたものです。 緑だと感じて手に取ったものにグレーと書いている。 こういった自分の感覚が共通(しているふうの)言語に裏切られる体験を日常的に味わっています。 絵

          ステートメント 「色弱」の画家として

          「紫」というよくわからない色

          「紫」といったときになにを思い浮かべるだろう。 花や野菜、果物あたりを頭に浮かべる人がけっこういるんじゃないかと思う。 私は正直なにも思い浮かばない。 正確にいえば、あらゆる候補は出てくるけど、それらから決定することができない。 というのも、私は多数派色覚がいうところの「紫」がよくわからないからだ。 なんとなく「鮮やかで深い青」ぐらいに思っていて、でもそれは多数派的には紺だったり、水色だったりする。 紫色の絵の具が使用された絵はたくさんある。 風景が描かれている場合、画家

          「紫」というよくわからない色

          モチーフについてのメモ

          車 車に乗って走っていると、自分が野生の獣になったような気分になる。 命の危険にさらされたときの緊張感。 脳の使ってない部分がはたらくのを感じる。 いつも見えているものは見えなくなるけど、その代わりに見えてくるものがある。 意味や文脈が消え、光や色の世界になる。 ちょうちょや蛾 ちょうちょがひらひら飛ぶと光が透けたり反射してチラチラ光る。 ちょうちょのまわりだけぼやっと光っているようにも見える。 作家の北杜夫はある蛾について「その色彩はたしかに日の光によって生まれたものでは

          モチーフについてのメモ

          制作についてのメモ:2022.06/8

          自分の後頭部を視認する術がないように、自分の存在はとてもあいまいな状態にある。 その存在を確かめる方法としてカメラや他者とのコミュニケーションなどで第三者的な視点を獲得するというのがある。 自分ではわかりようのないことを補ってなんとか自分はここに、こういうかたちでいるということがわかる。 しかしそういった情報としての存在ではなくもっと感覚的に、自分が「いる」ということがわかるときがある。 その感覚は例えばこんなときにあらわれる。 散歩をしていて、自分のはるか上空を飛行機が

          制作についてのメモ:2022.06/8

          赤みがかった緑

          似てる色は?と聞かれて多数派の人はなに色となに色を思い浮かべるだろう。 例えば赤とオレンジ、緑と黄緑は似てるというかもしれない。 私の場合は赤と緑の2色を近いと感じるため、この色を含んだ異なるトーンのピンクと淡いグリーン、オレンジと黄緑なども近いと感じる。 一般的に似ているとされる色は赤みがかった茶色であるとか緑がかった青とか色相環を見ればわかるように隣りあい、混ざりあっても不自然でないことが示されている。 しかし私には赤みがかった緑(当然逆も)というのがある。 色相環を

          赤みがかった緑

          reflected sunlightについて

          大型のソーラーパネルが続々と郊外の空き地を埋めるように並び始めている。 散歩中や車で通り過ぎるたびになんとなく惹かれて眺めてしまう。 少しツヤのある濃い青のパネルが同じ方を向いて、空や雲を微妙に映している。 同じ規格の人工物が単調に物言わず佇んでいる姿は不気味に見えるが水面のような自然の厳かさも感じる。 ソーラーパネルは絵画とよく似ている。 ソーラーパネルはなにもせずただそこにあるようでいて、絶え間なく太陽光を受けとって別のエネルギーに変換している。 絵画もある種のエネルギ

          reflected sunlightについて

          コウモリについて

          2021年9月ごろから絵にコウモリが登場し始めた。 前から干潟や地元の風景は描いていて、コウモリもその風景の一部として自然と画面に現れた。 私の絵は夜の時間が多い。 夜は制度やモラル、視覚から少し自由になって、気が楽になる。 そんな心地よさをいつも表したくて夜を描く。 コウモリはそんな夜の気持ちを代弁してくれる存在として、私の中では特別になった。 哺乳類でありながら空を飛び、視覚に頼らない世界を感じながら縦横無尽に動き回る。 洞窟性というユニークな生態を獲得して、独自の生

          コウモリについて

          感じるだけにして放っておく

          色覚に関する実験に被験者として参加した。 内容について詳しくは言えないけど、色光に関するシンプルな作業を何度も何度も繰り返すものだった。 その間に気づいたことは、これまで(いまもまだ)色と向き合おうとすると頭がグラグラする感覚があったけど、それは色を感じることではなく色を頭で処理するようなときに起こるものだということ。 色を分別するときに「この色は何色だろう」と多数派の色名に合わせて処理しようとするときにエラーが起こる。 本当はそんなことをする必要はないけど、合わせる

          感じるだけにして放っておく

          この色はなに色か

          こども園のお絵描き教室のため、段ボールでつくったクリスマスツリーに仲間とふたりで色を塗っていた。 もみの木の部分は緑、鉢植えの部分は何色にしようと相談して、オレンジに塗ろうということになった。 私が以前仕事で使ったペンキを使おうと取りに行って、緑とオレンジを選んで作業場まで運んだ。(ペンキの種類は緑、黄緑、オレンジ、グレーがあった) このときの作業場は黄色みのある照明だった。 なんのためらいもなく私は鉢植えを「オレンジ」 に塗っていたけど、こちらを見た仲間がそれは「黄緑」では

          この色はなに色か

          自由な色づかい

          もっと自由な色づかいで描きたいと思うとき、または描いてほしいと言われるとき、なにから自由になればいいんだろう。 色についての感覚が一致しないことが多いのでなんとか一般的なものに合わせようとした結果、言語にとらわれやすいと聞いたことがある。 例えばカエルのぬいぐるみが茶色く着色されていても、カエル=緑だという回路ができているため、疑いもなく緑だと認識するというように。 このような先入観から自由になることはできると思う。 私が初めて油絵を習ったときにも、先入観にとらわれず感

          自由な色づかい

          Palm/Rainbow

          色をとらえることはとても不確実で不安定なことだと思う。 確固たる色なんてものはない。 しかし色には名前があり、物も色の名前を冠したりする。 不確実さをそのままとらえた、状態としての色、形を描く。