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承認欲求VS自己肯定感

承認欲求という言葉が社会に出回るようになったのは2010年頃らしい。
丁度、TwitterなどSNSが生活の一部になってきた辺り。
そうだよね、だって、私が日本に住んでいた1990年代まで、そんな言葉、使ったことも耳にしたこともなかったもん。

もちろん、その頃も、それより以前も、承認欲求ってものは言葉として出回ってなかったとしても、人間の中に存在していたはず。
誰でも、子供の頃なら、”親に認められたい。”、”先生に認められたい。”、”友達に認められたい。”という気持ちが多かれ少なかれあり、大人になるにつれ、”上司に認められたい。”、”会社に認められたい。”、”社会に認められたい。”に変化していくものの、根底にある、”私を認めて欲しい”は、人間には絶対ある。(きっと、生物にもある。少なくともうちのワンコ達にはある。)

もちろん、私にもある。

だけど、いつ頃からだろう。
なんかその欲求に違和感を感じ始めたのだ。

その所謂、自分の”承認欲求”を満たす為、自分ではない自分を演じるようにさえなっていく気がしたのだ。
つまり、周りが喜ぶ、周りが賞賛する自分を作り上げるとでも言おうか。

確かに、自分の努力の結果、得られた賞賛は嬉しい。だが、本来は、自分がやりたい、やり遂げたいという気持ちがあったから努力したわけで、それは自己肯定感に繋がり、心が満たされるはずなのだが、何故か、他人の賞賛の方が麻薬のような快楽を心や脳に与えるのか、いつしか賞賛を得る為に努力をするみたいなことになっている。そうなると、自己肯定感は賞賛(や他人の評価)の上に成り立つみたいになって、それって、どうもヘルシーじゃない気がし始めたのだ。
なんというか、常に賞賛を浴びたい気持ちや、他人の評価ばかりを気にして生きるとでも言おうか。

そんなこともあり、この数年は、会社を離れたことだし(ガンにもなったし)、”自分のことは自分の物差しで測る”を第一に置いて生活するようにしている。
他人に認められるより、自分が認める自分であろう、と思って生きている。まぁ、いつも合格点をあげられる自分であれるわけじゃないけどさ。でも、そんな気持ちを持って生きてるだけで、死ぬ時に後悔が少ない気がするのだ。

気まぐれで、残酷な他人、その時代で価値観の変化する社会に、自分の評価を任せるなんて、真っ平御免。自分の人生の主役は自分。そして、その自分を最後まで観続ける観客も自分なのだ。だったら、私は、その観客を自分のファンにしたい。それが自分を愛するということだろう。そして、愛される自分は間違いなく幸せだ。











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