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また、走ってみないか?(2)

「おい、そこの馬鹿コンビ。ちょっとこっち来い。」

鹿内(しかない)颯太とストレッチをしていたら、監督から呼ばれた。
僕の苗字が司馬で、また、鹿内とは気が合い、よく行動を共にしていたことから、監督が僕たちを纏めて、”馬鹿コンビ”と呼ぶようになった。
今の時代、それはパワハラとかモラハラとか言われそうだが、そこには、”ランニング馬鹿”みたいな意味も込められているのが分かっていたから、僕も鹿内もそう呼ばれることが誇らしかった。

鹿内は九州福岡出身で、僕は東北仙台出身。生まれ育った場所は、北と南で真逆だが、都市規模自体は、その地方では1番の都市であったり、親が地域ではそれなりに名の知れた自営業だったりと、共通点が多かった。育った環境が似ていると、考え方や価値観も似ているのか、一緒にいて、非常に心地良かった。もちろん、彼と一番共感できたのは、ランニングに対しての情熱だ。それがなかったら、どんな共通点があろうとも、親友と呼べる存在にはならなかっただろう。
そして、もちろん、その情熱があるからこそ、僕たちは、ライバルでもあった。箱根に出れる枠は10名。いや、その前の予選会に出れる枠も決まっており、10名から14名。部員数は、40名程度。つまり、上位25%から35%に入らないといけない。簡単なことではない。部員全員が、同じように努力をし、その枠を狙っているのだから。

1年目、予選会出場メンバーに入れなかった。
鹿内は選ばれた。悔しくなかったと言えば嘘になる。だが、1年生で選ばれたのは彼一人。なんか、同学年から、一人でも、先輩達に食らいつき、枠をもぎ取ってくれたという誇らしさもあった。
2年目、僕も鹿内も選ばれた。僕は、この1年で自分の筋力がより強く成長していることを自覚していた。僕は、もっと、速くなる。いや、速くなってみせる。
3年目、僕も鹿内も選ばれた。そして、僕たちは、チーム最速1、2を取った。最後のスパートで僕が競り勝ち1位。嬉しかった。鹿内はもちろん悔しがった。だが、「最後が上りなら、俺が勝っていたのにな。今回は譲ってやるよ。」と嘯き、笑いながら、頭をガシガシ撫でながら、褒め称えてくれた。

そして、僕たちチームは、念願の箱根の切符を手に入れた。
成績は、21チーム中、18位と、振るわなかった、と思われるかもしれない。だけど、僕たちの大学は、10年ぶりに箱根に出場できたのだ。自分たちの在籍中に、夢が叶ったのだ。その夢の舞台で自分たちは紛れもなく、自分の力を出し切った。僕は、悔しさより、その場にいられた自分、そして、自分は区間5位という記録を残せたことに満足していた。

そして、最終学年の年、僕は故障していた。箱根を走った後から、足の裏に違和感を感じていた。踏み込む度に、ピリッとした痛みが走る。それが徐々に増し、普通に歩く際にも痛みを感じ出した。

記録を出すというのは、自分の肉体の限界に挑戦することだから、当然、怪我をするリスクは上がる。そのせめぎ合いの中、僕たちは走り続ける。監督に、箱根の後、正直に状態を告げた。監督は、まだ、時間があるから、休めと言った。僕は、フィジカルセラピーや鍼に通い、回復を計った。

普段の生活では、痛みはほぼ感じなくなったが、走り始めると、やはり痛みを感じた。だが、もうまともに練習しないで3ヶ月。筋トレやバイクなどで筋力は落とさないようにしていたが、やはり、長距離走の練習は、走らないことには始まらない。

「おい、あまり無理するなよ。」
鹿内は、少し練習に参加した後、びっこを引く僕に心配そうに言った。

「ああ、分かってる。でも、なんかさ。」
「焦るよな。」
「うん。」

それだけの会話で、お互いの気持ちが分かる。

ランニングは個人競技だ。だが、駅伝という競技の中においては、団体戦であり、そこに特別な絆が生まれる。

(続く)



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