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また、走ってみないか?第二章②

高揚感を抱えたまま、政宗のアパートに戻った。
夫・大二郎は、アイシングを終え、床でマッサージをしている息子を眺めながら、ソファーで、マシュマロ入りホットココアをチビチビ飲んでご満悦の様子。
大二郎は、奈良漬で酔うほどの下戸。その分、甘いものには目がなく、ニューヨークに来てから、ゾッとするレベルの甘そうなデザートや飲み物に嬉々として挑戦している。

「ただいま。あー、楽しかった。外は大分、気温が下がってきたわよ。でも、まだまだランナーがいるのよね。一体、何時まで走れるのかしら。マラソンレースって、制限時間があるわよね。7、8時間だっけ?」

コートを脱ぎながら、軽く聞いた。

「NYCマラソンには制限時間がないんだよ。」
「え?」
「最後のランナーがゴールするまで、フィニッシュゲートは開いているんだ。真夜中になろうと、翌朝になろうと、ランナーがゴールする意志があり、進み続ける限り、スタッフは待っているんだ。そして、最後のランナーがフィニッシュラインを踏んだ時、その年のNYCマラソンが終わる。その場にいる多くのスタッフと応援者達は、最後のランナーに称賛の拍手を送る。一番にゴールしたランナーも、最後にゴールしたランナーも一緒なんだよ。称賛は全てのランナーに平等に贈られるものだと、僕は、NYCマラソンから学んだよ。」

なぜか胸が熱くなる。
そうか、誰が一番とかではなく、走った人、みんな、一番になれるのね。自分の人生の中で一番の走りをしたら、それが一番なんだね。

些細な会話に深い真実が隠されていることがある。
それが自分の人生、つまり、これからも続く毎日に影響を与えたりする。

「お、もう5時を回っているじゃないか。予約してくれたステーキ屋って、ここから歩いて行けるんだっけ?」

大二郎が、携帯の画面を見て、今更、時間に気づいたようだ。いつからか、生活の一部として当たり前にあった壁時計や置き時計が消えていった。時間を確認するのも、携帯画面。そう言う私も去年からアップルウォッチを愛用している。若かりし頃は、あんなに腕時計の美しさにこだわりを持っていたのに、今は便利さの方が優先。睡眠時間や質、心拍数も計測出来る優れもの。でも、なんだろう?何か大切なものを失ったようにも感じるのよね。
これは、私が歳を取った証拠なのかもしれない。ここ最近は、未来を描くより、過去を思い出す時間が増えた気がする。

「5時半に出れば、余裕だよ。そろそろ用意した方がいいかな。あ、ネクタイまではいらないけど、今のスェット上下はアウトだから。」

政宗に指導され、大二郎は、「よっこらっしょっと」と言いながら、ソファーから立ち上がり、NY到着後にハンガーに掛けていた、黒のパンツと格子柄のジャケットに着替え始めた。

子供の頃、なんでおじいちゃん、おばあちゃんは、立ち上げるときに一々、「よっこらしょ」とか声を出すんだろうと思っていた。
自分は声を出そうと意識しようとしても、身体の方が先に反応するから、言葉が出る前にその動作が完了していた。
だから、一々、声を出す理由がさっぱり理解出来なかった。

今はよく分かる。頭でこれをやろうと意識したことを体に実行させる為に、気合いみたいなものが必要なのだ。
私と大二郎は、同い年だから、お互いの身体の変化がよく理解できる。ああ、お互い、結構、ガタついてきましたね、と。

人生をマラソンレースに例えると、自分は今、何キロ地点にいるのだろう?
最近は、人生100年なんて言われるけど、健康年齢は85歳ぐらいだったっけ。そうすると、私も大二郎も、30キロ地点に近づいているぐらいだろうか。随分、走ってきたものね。振り返るとその距離の方が長い。

その長い距離の先の方に、桜がいる。ずっとその場所に桜がいる。

ああ、今日は、なぜか桜のことをたくさん思い出してしまう。
もう自分の中では整理がついたものだったはずなのに。

(続く)







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