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(短編小説)ルオーからのオルガンの音
水曜日の午前11時からのほんのひと時が、私が私であると思える時間だ。
ルオー礼拝堂で、パイプオルガンを演奏するようになり、気がつけば季節が2回巡っていた。桜が蕾をつけ始めた頃、この礼拝堂のパイプオルガンと出会った。小さな礼拝堂にふさわしい小さなパイプオルガン。しかし、そこから生み出される音の雫に私は魅せられたのだ。
自分が奏でているというのに、まるで、自分がこの礼拝堂で聴者として存在しているかのように感じてしまう。私は弾き手であり聴き手であり、そして、私自身だと思える時間。私はこの礼拝堂を、このパイプオルガンをこよいなく愛している。
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しかし、この礼拝堂に訪れる人はそう多くはない。この礼拝堂は、山梨の青春芸術村の敷地内に位置しているが、多くの訪問者は、アート作品を巡るのが目的だ。時間に余裕があれば、立ち寄る人もいるが、わざわざ礼拝堂の美しいが座り心地の悪い木の椅子に腰掛け、演奏を聴く人など滅多にいない。
ただ一人を除いて。
私が彼の存在に気づいたのは、演奏をし始めて2ヶ月ほど経った頃。新緑が芽吹く季節だった。いつもは演奏を終えた直後は、少し放心したようになる。自分の演奏に酔うなんて自惚れ過ぎだと思うが、音に酔うみたいな状態になり、暫し、動けなくなる。だから、自分がオルガンから離れる頃には、礼拝堂にはほぼ誰もいない。
だが、その日は、朝から嫌なことがあり、演奏に集中出来なかったからか、予定の曲を弾き終えると、ようやく義務が終わったような気分で、席を立ち、礼拝堂の扉の方に向かった。その時、初めて、人が残っている事に気がついた。ステンドグラスから刺す明かりだけが頼りのこの礼拝堂で、身なりのいい男性が、扉に近い最後尾の席に腰掛けていた。年齢は50歳前後だろうか。その紳士は、色の濃いサングラスを掛けていた。身なりの良さに反して、真っ黒いサングラスは、なんともチグハグな印象で、妙な違和感を感じた。だが、その原因はすぐに分かった。彼の右手には、真っ白な杖が握られていたから。
ああ、目の不自由な方なんだ。
それなら納得、と思った瞬間、更に、疑問が沸いた。
え、なんでここにいるの?だって、ここはアートを観に来る場所。目が見えない人が、なぜ?
芸術村という場違いな場所にいるはずの紳士だが、なぜかこの礼拝堂に姿勢良く腰掛ける姿には何も違和感はなく、それどころか、この場所こそが、彼を迎えるのに相応しいかのように思えた。
声を掛けようか、迷っている瞬間、扉から光が差し込み、一人の係員が入ってきた。係員は、紳士の元へ歩き寄り、「井村様、お車のご用意が整いました。」と、耳元で告げた。
紳士は無言で頷き、係員の誘導で、出口へと進んでいった。
私はなぜか少しほっとした気持ちで、彼らの後ろから礼拝堂を出た。
薄暗い礼拝堂から出ると、太陽の日差しに、一瞬、目が眩む。
前を歩く紳士のことを考える。彼はこの眩しさを感じるのだろうか、と。
カツカツと白状の音をさせながら、テンポ良く歩を進める紳士と係員はまっすぐと敷地の出口へと向かっているようだ。
いつもなら、私は、演奏後の高揚を鎮める為、この敷地内を散策し、アート作品を見ては、自分の演奏の滋養にしている。
だが、その日はそんな気にもならず、足早に、出口へと向かった。その結果、施設の出たところにある車寄せで、紳士と係員を追い越すことになった。紳士と係員は、真っ黒なセダンの前で立ち止まっていた。
彼らの横を通り過ぎる瞬間、二人の会話が耳に入った。
「今日の演奏は、いつもと違う方でしたか?」
え、っと思い、思わず、振り返りそうになった。その後、盗み聞きしたと思われると焦り、ぐっと堪えた。しかし、考えてみたら、彼は盲人。バレるわけがない。
私は、まるで人待ちをしているかのように、バッグから、携帯を取り出し、立ち止まり、画面を見るフリをしながら、彼らを観察した。
紳士の突然の問いに、一瞬、なんのことを言われたか分からなかった係員だが、気付いた後、思い出すように目を上に向け、その後、「いえ、同じ演奏者ですよ。1年間契約で、今年の春から演奏して頂いている方ですから。」と応えていた。
「・・・そうですか。」
盲目の紳士は、納得のいかないように首を傾げていたが、係員が、車のドアを開くと、紳士は、慣れたように、頭を低くし、身体を座席の奥に入れた。
係員は、車のドアを丁寧に閉め、車が立ち去るまで、頭を下げていた。
その間、私は呆然と佇みながら、ある結論を出していた。
あの盲目の紳士には、バレていた。
今日の私の演奏に、全く心が入っていなかったことに。
どこかで、軽くみていた。
こんな田舎の小さな礼拝堂の演奏など、誰も聴いちゃいない。
誰も違いなど分からない。
私さえ、気持ち良く弾ければ良いと。
しかし、違った。間違っていた。
私は恥じた。
自分はプロの演奏者としての矜持を忘れていた。
自分が演奏者で聴者であるだけで、満足してはならない。
そこには、第三者の存在があるのだ。
以来、私は、演奏の前、あの盲目の紳士の存在を背中に感じ、緊張する。
軽いストレスといっても良いかもしれない。
しかし、その緊張感とストレスは、決して、嫌なものではない。
集中力を高め、そして、一気に演奏の渦へと入る。
自分をもう一段階高めてくれる役目を果たしてくれているように思える。
私はまだ一度も紳士と言葉を交わしたことはない。
ただ、演奏を終えた後、振り向くと、彼がまだあの時同様、一人、あの同じ席に座っていることがある。真っ黒なサングラスをかけた顔は一見、無表情に見える。だが、そのシニカルそうな口元が、軽く上がってみえることがある。
「今日のは良かったよ。」
と、言われているようで、私はそれだけで、十分な気持ちになる。