介護は夫婦、そして家族の再生物語だ
私は自慢じゃないが、親不孝娘だった。ことごとく父や母の期待を裏切り、というか、反対されることほど、燃えてしまう、やっかいなタイプの娘だった。それも長女なのに。
戦前生まれの父にとって、私の行動の一つ一つが許せず、理解できず、その間に立った母はいつもオロオロしながら、諭し、なだめすかし、なんとか軌道修正しようとするのだが、そんなことをまともに聞くタイプではない。母は私のことで父に怒られることも多く、今思えば、本当に気の毒だった。
だが、とても家族思いの良い妹がいてくれたおかげで、母はずいぶん救われていた。妹は父母の希望通り、26歳で結婚し、隣の市に義父母と同居し、何かあれば両親のためにも駆けつけてくれる「良い娘」と「良い嫁」を絵に描いたような女性だった。
私はそれにかこつけて、任せっぱなしで、好きな仕事に明け暮れ、結婚する気もさらさらないまま、挙句の果てに東京へと家出してしまった……。占い本を見ながら、妹に「年寄との縁が深く、年寄のお世話をする人生って出てる」とひどいことを言い残して。言い訳ではないが、実際、彼女は年寄受けがとてもよく、今もパートで働いている眼科では、永遠のアイドルだ! そんな私が介護に実家に戻ることになったことの顛末は、前回をどうぞ。
実家に戻って、2年半。介護をして何か解決を得たことは全く持ってない。ただ、言えることは、この2年半、いや母が認知症を発症して6年、バラバラだった家族が何十年もの空白を埋めるような時間を過ごしているということ。
母が認知症にならなければ、私は実家からどんどん足が遠のいていたはずだ。帰省する度に父と「もう二度と帰ってくるな」「ああ、二度と帰ってこないわ」という昭和の喧嘩を繰り返ししていたし……。そうそう、これも私が「寅さん」と思うゆえん。
そんな状態だったから、母の介護よりも何よりも、私と父がまず乗り越えなければいけない巨大な壁があったのだ。親子だから分かり合えるというのは幻想であり、相手のことをどのくらいわかっているかといえば、10代の半ばぐらいからまともに話をしたことのない父と娘が、お互い何を思って生きてきたかなんて、知る由もないのだ。
ただ、これは夫婦にだって言える。認知症になってからの母は、今まで抑えていた感情を一気に吐き出すかのように、父への文句が止まらなかった。初期の認知症は、ところどころ忘れっぽくはなっているが、ほとんど普通の人と変わらない。だからもう父と母の喧嘩はすさまじく、もうそれは思春期のカップル???ってぐらい激しい喧嘩が続いていた!
30年以上ぶりに暮らすことになった父と母と娘。それぞれの人生の悲喜こもごもをぶつけ合いながら、突き放しては引き寄せ、傷つきながら少しずつ、理解しあう。
そんな毎日を過ごす中で、「あ~~、介護って、夫婦の再生、家族の再生だな~」って思ったのだ。
一生知り得ることのなかっただろう両親の様々な思い。父との葛藤は今なお続行中だが、母とは不思議なぐらい理解しあえた。たぶん父はまだ理性が邪魔をしているし、母は認知症になって、理性より本能がむき出しになり、より直感的になっていたから。
実家に戻ってきたばかりの頃、母と日課の散歩をしているとき、ふいに「直美は、男に生まれたかったでしょ。男の人に負けないで働きたかったわよね。結婚なんかしないで」と言い出した。「何で結婚しないの?」と怒ってばかりいた母が、初めて私に本音を言ってくれた気がした。
「ううん、結婚も悪くはなかったよ。何より、子どもを持てたことは私にとっては思いがけない幸運だったよ」と言うと、「そう?」とほほ笑んだ。
こんな会話もすぐに忘れてしまうのだろうけど、それでも母と心が触れ合えたような気がした。
50歳を過ぎて、まさか、母とこんな話ができるなんて思わなかったけど、これも認知のおかげだと思ったりする。家族ほど、面倒くさくて、ややこしくて、近くて遠い存在はない。
そして現代は、家族が簡単にバラバラになってしまえる時代。だからこそ、この時間はきっと親を避けてきた私へのプレゼント。
家族を再生しながら、私はまた、きっと新たな家族の時間を作っていくのだな~となんとなく、感じている。
そして、最初の写真は、父が母の認知を受け入れられるようになり、母にとても優しくなってきた時の写真。戦前生まれの男が人前で母の手を握るのは恥ずかしいと言っていた父が、嬉しそうに母の手を引いていたのを近所の人が撮ってくれた。どうやら、父はもう一度、母に恋してしまったのかもしれない!
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