黒ネコのクロッキー⑨太った男2
ネコは駄目だ。馬鹿なのだから…
いったい何だって言うのだ、俺の顔をじろじろ見やがって。ネコのくせに。ほら、あっちへ行け。
よし、横になったら少し体が楽になった。深呼吸するぞ。吸って、吐いて、吸って。
だいたい俺は、犬の方が好きなのだ。一緒に走ったりボールで遊んだり、ネコより健康的だ。
ああ懐かしいなあ。母さんがいたころ家には犬がいた。柴犬だった。名前を何といったかなあ、母さんの言う事を一番良く聞いたのだ。
娘が犬を欲しいと言っても俺は知らぬふりをしていた。世話が面倒だし金もかかる。あの子が寂しいことを知っていたのに、ひとりで我慢していることを知っているのに、俺は何にもしなかったのだ。
おや、三毛ネコがいないぞ。白いほうも外に出るようだ。ネコなんて気まぐれなものだ。だが俺はそうはいかない。娘が待っているのだから。
よし、保育園の帰りに駅前のペットショップに寄ってみよう。先週通りかかった時は小さい柴犬がいたのだ。あの真ん丸な黒い目を見たら娘は大はしゃぎするだろう。どうしても欲しいとせがまれたら、今度こそ聞いてやる。首輪の色を選ばせたらどんなに喜ぶか。
さあ、こうしてはいられない。黒ネコのことなどもうどうでもよい。さてと、もう一度深呼吸するか。
待てよ、自転車屋にも用がある。
幼なじみのあいつが俺を心配して何べん連絡をくれても、俺は適当な返事ばかりしてうるさがっていた。お前には俺の気持ちなどわかるまい、とひねくれていたのだ。そうだ、俺はひねくれていた。
腹一杯に飯を食うことで、それをごまかしていた。満腹になれば他の事は考えなくていいのだから。
俺は馬鹿だったなあ。あいつだって店と親父さんの世話で大変なのに。
この時間に車椅子を押して公園を散歩するのを、俺は前から知っていた。それなのに何もしなかった。
さあさあ、こうしてはいられない。娘を連れて公園にも行ってみよう。娘はおしゃべりが上手なのだから車椅子の親父さんにかわいらしく挨拶するだろう。親父さんも目を細くして喜んでくれる。子供だったお前に娘が出来たのかと、昔のようにからかうかもしれない。母さんが死んだ時はあんなに親身に世話をしてくれたのだ。俺がこんなに太ってしまったことは何と思うだろうか。
いや、とにかく会いに行こう。行って、娘の顔を見せればそれでいい。娘はきちんと挨拶する。ほっぺにある小さなあざを、生まれつきの模様なの、と決まって言う。エメラルドグリーンのTシャツの裾を、指先でつまんできゅっとひっぱるはずだ。
そうして、お腹のちょうど真ん中にイルカの絵がくれば、次は「腹八分目に病なし」を得意げに披露するだろう。俺のこの体を見て、園長先生がわざわざ節をつけて作ってくれた調子のいい歌を。
娘は朝に晩に俺の耳元であれを歌う。するとどこからか力が湧いてくる。多少腹は減っても幸せな気持ちになるのだ。
終わり
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