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将来の夢

数年前に書いた記事を引っ張り出してみます。

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中高校生あるある。将来になんとなく不安を感じて焦る。が、焦ったところで何にもならない。

 人は人生の中で何度も自分の夢について語らされる。それは足し算引き算もできず、日本語すらあやしい幼稚園児のころから始まる。学級発表会で自信満々に発表したであろう将来の夢を、僕はもう覚えていない。

 触発されやすい性格なのだろう。温暖化についてのスピーチを聞けば環境保全に関わりたいと思ったし、本が好きだから作家になろうと思ったこともある。大半が夢にも満たない妄想で終わってしまったが。

 僕の学校は、生徒1人ずつがテーマを設定し、1年かけてそのテーマについて調べるという取り組みを行っている。これがまあ地獄だった。日々の宿題と思春期が複雑に絡み合った学校生活をサバイブすることだけで頭がいっぱいの中高生が、「中高生らしい」テーマ(そもそもそんなあやふやな基準は基準とは言わない)を設定し、たいして授業時間も取らずに10枚のレポートを仕上げ、あげく大勢の人の前で発表するなど正気の沙汰ではない。僕がこの取り組みを通じて得たものは、将来の夢を持っていないことへの焦燥感だけだった。

 少し前まで、とにかく色々なことに経験していれば、その中に夢が見つかると思っていた。ブルガリアに10日間留学してみたり、子供だけのキャンプに行ったり、それでいえば人より多くのことに取り組んできたとは思う。しかし夢は見つからず、それどころかやりたいことと興味のないことが混ぜこぜになって、よく分からなくなってしまった。それでも「経験を積めば夢が見つかる」の一点張りで、チェコへの留学を決めた。今のところまあ見事に何も見つかっていない。

 ではなにが間違っているのか。考えて、本を読み、自己啓発のサイトを読んでみた結果、たどり着いたのはあまりにも普通過ぎる結論だった。自分って何にも知らないし、頭も使ってないな。知識がなければ興味はわかない。社会の本質もつかめない。有益な情報を得ても頭を使わなければ自分のものにはならない。使う頭は学校での勉強をするときのものとは全く違うものだ。どれだけ考えても答えは出ないことの方が多いし、なにより時間と精神力を消費する。それでも考え続けなければ、夢は見つからない。思い返してみると、中高での取り組みは、頭を使うトレーニングとして生かせたのではないかと、手遅れながら後悔を感じた。

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