見出し画像

成長とジェネレーションギャップと

「脱成長」

「脱成長」という言葉を耳にするようになった。
この言葉に対する理解度が世代間で全く異なることに気を揉んでいる。

ちなみに私はこれに関して大いに賛同だ。
「脱成長」素晴らしい。私の中での脱成長を少し語ろう。

「脱成長」のグラデーション

私の中での脱成長は「経済的な成長やめようや」である。
正直、今までの「経済的成長」を求める姿勢には辟易していたのだ。
あと、言いたいこととして「個人的な成長」に関してはどんどんやるべきだと思う。
「経済社会の脱成長」に賛同したとしても「個人的な脱成長」に関しては全くもって否定的な立場である。

世代別ステレオタイプ

少し偏見混じりなお話をしたい。
1970年代~1980年代生まれの世代はこの脱成長に関して混同しがちだな、と感じている。
なぜなら、この脱成長理論を語る上で欠かせないバイアスがある。
1990年代生まれの我々は「ゆとり教育」という教育を施され、「社会で扱いにくい無能達」だと刷り込まれている。
そういうゆとり君たちが語る「脱成長」。これはゆるゆるとガツガツと生きるのを辞めて個人的な成長も諦めた。そういう風に考えているからだ。そりゃ混同もするわ

ちなみに私は現在30+α歳。
世間の40歳~60歳くらいの人々が顔を真赤にして叩く「ゆとり」世代真っ只中の年齢だ。
言われたことしかできないとか、偉そうに反論してみたり、パソコンの操作はできるヤツ。
みたいなそういうとこを切り取ってすぐに「ゆとり世代」だと声高に宣言する。何なら馬鹿にする。

歴史を振り返ると、社会構造に合わせた価値観の生物が生まれてくるのは必然であることがわかる。昔の価値観でいる人にとっては、新たしい価値観を理解できない。
まぁ、歴史の登場人物で考えれば分かるが、当事者たちにそんなもん感知できないし、後世の人間が偉そうに考察したり妄想しているのが歴史だ。こういう性質を持っている以上、この構造から逸脱するのは少々苦労するだろう。

新しい世代の人は古い世代の人を認識できる

ジェネレーションギャップのジレンマ

ネンコウジョレツモンスター

この現代社会に大きな影響を与えており、ない方がいいのになくなることがないであろう制度「年功序列」について、当たり前のことを言語化しておきたい。
年功序列が成り立つのは、現代のようなネットワークが発達していない社会のみだ。
なぜなら、知識や技術の継承するためのツールが発達しておらず、それらを手に入れるためにはそれらを持っている人にアクセスする必要があったからだ。
持つものと持たざるものの構図では、シンプルに「持つもの」が強者になる。その「持つもの」のパワーが強くなりすぎることを避けるために年功序列という不文律を作り、バランスを取ったのではないか。
あと、シンプルに知識=経験であった。経験が最重要とされていた社会であるのなら、年齢を重要視する事は致仕方なかった、という背景もあるだろう。

まぁ、今となってはインターネットや社内の教育システムがそのどちらも代替しているが。

というわけで1970年年代〜1980年後半生まれの人達は、強く残る当時の年功序列制度に虐げられ、ろくな教育を受けられないので能力による格差が広がる。(あの世代ピンキリなのはそのため)
年齢を重ねて威張り散らそうとした矢先に社会のシステムの変革スピードが加速度的に上昇していまい、追いつこうにも既に年功序列の価値観が凝り固まっているので変化についていけない。
そんなこんなで、態度が大きく能力が低い年功序列を重視する悲しいモンスターが生まれたのではないだろうか?

嫉妬・羨望

人間は感情の動物だ。
感情がベースとなって行動している。
いくら理性と本能で分けたところで、そのどちらも感情をもとにした行動論理で生きている。
その感情の中でもあまり評価されず、良いものとされないものがある。
嫉妬・羨望がそうだろう。
怒り・悲しみも負の感情で語られがちだ。しかしそれは悪い感情ではないと私は考える。なぜなら、怒りや悲しみは自己の内から湧き出したり、もしかしたら原動力になって事態が好転する場合があるからだ。
その点嫉妬・羨望は好転することがほぼない。基本的に足を引っ張る方向に働くか、逆に羨ましいから頑張っても、追いついたらその人を下に見たり、バカにしたりする。

正しい評価がなされず、納得がいかないことばかりだった方々に発生する感情ではないだろうか?

不遇のその先に

ネンコウジョレツモンスターについて色々書いてきたがこれに関して私は正直同情している。(冷静な時に考えてみて)
世間でクソ上司だの先輩ガチャだの様々な批判を頂いている社会人の先輩方だが、彼らには彼らが育った土壌があるということを知ってほしいと思う。
好きで社会のスピードについていけないモンスターになったわけじゃないんだ。運と社会OSの違いなんだよ、と。

一方でモンスター達も理解すべきことがある。
若者は若者たちの社会OSを積んで成長してきているのだ。
若造が、とかクソガキが、とか言わないで相手を尊重して話し合いを経て
「納得はしなくていいから少しは理解を示せ」と言いたい。
相互理解、お互いさま精神を養ってほしい。

理解は新たな軋轢と偏見を生む

上記のような問題の根底には相互理解が欠かせない

そこで、前項を覆すようではあるが相互理解が進むことで起きる問題に関しても一考察として以下に書き記したい。

偏見が偏見を生む負のスパイラル

様々な情報が出揃い、理解不足から生じる様々な問題が良い方に向かうとしよう。
そうすると、「これこれこういうことでしょ?」だの、「要するに」だの分かったように振る舞うという弊害が発生するのだ。
実際は何も分かってはいない。
わかったのは分かっていないということだけ。

これ中々難しい問題で、悪意がない分非常に鬱陶しい。
「わかった」という言葉の語源は「分ける→分類する」ということらしい。
この「分かった」には相手の意思というフレームが存在していない。
あるのは自分の知識という偏見の中から、それっぽく分類できるフレームを作り出して気持ちよくなっている自慰行為という事実である。

互いを尊重し、考え続けるしかない

どうすればいいのか?

相互理解に関しての懸案事項も記載した上で結果的にどうすればいいのか?
ということだが、この問題に関して答えやゴールはないのだと思う。
答えはこれだ!としたところで決めつけになり、それは理解から程遠いし
わからないからわからんなりにわからんわ、と言って諦めるのは簡単だが、それは前進とは程遠い。

そうなった場合どうするべきなのか?
粘り強く関心を持って考え続けるしかない

これでもまだ「脱成長」だと思うか?

以上つらつらと書き連ねた。
基本的に世代が違えば教育方針や、家庭の経済環境、いろいろな条件があまりにも違いすぎる。そうなれば価値観が統一されるのはまあ、無理。

今まで数十年単位で価値観がじんわりじんわりと変化していたところ、これからの時代、5年とか数年単位で変化するというメチャクチャなスピード感の中で生きていくしかない。どうすんねん。

そんなわけで、世代間における「脱成長」の認識や解像度が全く違うということがわかっただろう。

思考停止して下の世代を叩いたり、上の世代をバカにするのはのはいささかインテリジェンスに欠ける振る舞いであるだろう。


いいなと思ったら応援しよう!