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大切な幼なじみを失って

今までが普通だったことが突然なく無くなると、あなたはどのように思うでしょうか?
2024年4月23日午前8時20分。大切な幼なじみを亡くしました。

病名は「肺腺ガンステージ4」です。

それは突然の別れでした。

亡くなる3日前までは元気よく電話で会話していて、お見舞いに行った時も3時間も話していたのに。そして、彼の思い出をつづるにあたり、彼は冗談にも「俺にもしものことがあれば、文章にしてほしい」と言っていたので、今このように文字にしています。

また、執筆している本日5月2日は彼の誕生日。いろいろなことに思いを馳せながら彼とのLINEを交えながら書いています。

事の発端は一通のメッセージ

彼とは幼稚園からの知り合いで家も近く、大人になって住まいが離れても時折連絡を取り合う仲でした。

そして、大人になって交友関係が疎遠になる一方で、唯一と言っていいほど連絡を取り合っていた仲なのです。

そんな彼から一通のメッセージが届きました。それは意外な一言だったのです。

彼は幼少の頃から僕と一緒にスポーツしたりケンカしたりと、とにかく体が頑丈だった彼からは、意外にも弱々しいメッセージでした。

聞く話によると、どうやら工場で鉄を削る仕事をしてた際、大量に粉塵を吸い込んで呼吸が苦しくなったとのこと。念の為医務室に行ったら酸素濃度が非常に低くそのまま病院に来たのだとか。

総合病院で肺のレントゲンを撮ったら、肺が鉄粉まみれで医師も初めてみるぐらいだったと驚いていたようです。

それもそのはず。彼は痩せ我慢をするタイプで人に頼ることが本当に下手なのです。気丈に振る舞っていても彼の体はすでに限界に達していてボロボロでした。

社宅を借りて工場勤務を開始し、そこから1ヶ月後のことのようで、入院を余儀なくされた彼はとても心細かったようだったのです。

緊急入院をした彼からは、僕に入院先を真っ先に教えてくれて、今思うと面会に行って良かったと強く思っています。

なぜなら、生前に会えるのがこれで最後だったから。

病室から眺める景色は綺麗でした

彼が入院している病院に向かうと、病院の外でずっと待っていて元気そうに出迎えてくれた彼。

お互い久しぶりに会ったので思い出話や近況について話が弾み、夢中になって話していたのを昨日のように覚えています。

その時、病室の窓からは雨が上がり山の隙間から太陽の光が注ぎ込んでいたのです。

僕は話しながらも必死になってスマホカメラ撮影をし、その姿の見ていた彼からは「綺麗だよね」と、話をさえぎって夢中になっている僕に優しく声をかけてくれました。

彼と出会って35年の関係。故に、彼と見た夕日は中学生以来であったことをふと思い出した瞬間でした。

彼と3時間も話をし、彼の夜ご飯もあるので仕方なく病院を後にしたのです。そのとき彼は出口まで見送りをしてくれて「今日は来てくれてありがとう」と言い。僕からは「早く退院できるといいね。何かあったら言ってよ」とお互い元気よくバイバイをしました。

そして。帰路に着いていると彼からこのようなメッセージが来ていました。

とても幼なじみとは思えないほどよそよそしくもあるメッセージ。不器用な彼なりのお礼であると瞬時にわかりました。

彼からきた連絡は「肺腺ガン」

お見舞いに行ってから2週間後、信じられないLINEが飛び込んできました。
体が頑丈で病気知らずの彼から伝えられたのは肺腺ガンステージ4。

どうやら粉塵事故の影響でレントゲン撮影をしたら、ガンの影が見つかったようです。

そして彼からは、ドクターとのやりとりの録音を送ってくれました。
ガンを言い渡される瞬間も録音されており、僕も一緒に聴いていて目の前が真っ白になったのを覚えています。

音源の中の彼は静かに病名を受け入れていました。そしてこう言ったのです。
「がん保険に入っておけばよかった」と
この言葉を聞いて彼らしいと感じました。

そして、僕もこう思ったのです。
「たとえガンであっても彼なら絶対復活すると」

ガンを感じさせない彼の性格

これからガン治療をはじめるにあたり、彼は「なるべく地元で治療したい」と言っていました。

建前上では「俺に何かあったら身内が駆けつけるのも大変だ」と言っていたけれど、今思うと彼なりの配慮だったのかもしれません。

なぜなら、表に出さないけれど彼はとても心細さを感じる人間だからです。

35年の付き合いの中で彼は一度も弱音を吐くことはせず、無理をする性格であることも重々わかっていました。

とはいえ、転院する際の彼から送られてきた昼食の画像をみてびっくりしたのです。

「吉野家で1,600円」
彼は結構食べる方で、食欲を見たら「ガンなんて吹き飛ばす!」と、どことなく安心した僕がいました。

地元の病院に転院する景気づけとして、彼らしい性格がおもっきり出ていたのです。

ガンの進行は想像以上に早かった

病名でもある肺腺ガンは、日本人が発症するガンとして非常に多く、若ければ若いほど進行が早いようです。

そして普段弱音を吐かない彼からは、ガンの魔の手が襲いかかっている様子が伝わってきました。

転院先の病院に移るまでの数日間、自宅療養を過ごしていたのですが、彼からの辛そうな言葉がSNSを通じて僕の胸を突き刺しました。

「彼なら大丈夫!もう少ししたら抗がん剤治療が始まる!」
「そして落ち着いたらご飯食べに行く!」
「だって、不死身と言われてた友達だから負けるわけない」

と彼の底力を信じていました。

彼との別れは突然でした

昨日の辛そうな投稿が気になり、ただ見守ることしたできない僕に一通のLINEが届きました。それは彼の訃報を伝えるものだったのです。

ウソを言っていると思い、SNSも確認して愕然とました。

当時、家で仕事していた僕はその場で泣き崩れ、この歳になってこれほどまで声を出して泣き崩れるとは思いもしませんでした。

目も腫れ気が動転し、ひたすら取り乱しました。

そして彼に、「何もできなくてごめん」ととにかく自分を責めたのです。

そして、その日の夜、彼のもとへ行き変わり果てた姿を見てようやく現実を受け止めたのです。

「もっと彼を大切にすればよかった」「彼とやり残したことがたくさんある」と。とにかく僕の思考は後悔ばかりでした。

人間って普段当たり前のことを失うと大切さに改めて気が付く。ある意味都合の良い生き物です。

そして今、彼の火葬を終えようやく実感してきました。

とはいえ、彼には生前「頑張って生きている証を発信すれば、勇気づけられる人がきっといるから無理せず頑張ろう!」と約束してたのです。

不死身と言われケンカっ早い彼でも、ガンには敵わなかったのです。

人間の命は尊いもので儚い。

以上ここまで彼との思いや出来事を書いてみました。ここで読んでいただきありがとうございました。

以下は彼へのメッセージとなります。遺族からの許可を得て個人名を交えながらになります。このままページを閉じてもらって構いません。

誠二へ

先日、天国に持っていってもらった手紙はもう読んだ?

手紙にも書いたけれど、家も近い幼なじみとして常にケンカしたり遊んだり、バカしたりいろいろあったよね。

高校生の頃、誠二が引越しして寂しかったけれど、何度か遊ぶ機会を作り大人になっても照れくさい関係が続いていたっけ。

ところでさ、「俺が死んでも悲しむ人いるのかな?」なんてお母さんに弱音吐いてたんだって?

ふざけるなよ。どれだけ泣いたと思ってんだよ。そして、俺のことをすごいとか言ってたけれど全然すごくないし。

むしろ、メンタルは弱いし誠二と一緒で強がるタイプだよ。それ絶対知ってるはずじゃん。そして、俺が何日も泣いて憔悴しきった姿を見て「けんちゃん、ごめん」って絶対言ってるでしょ?

不器用ながら人を思いやる気持ちは人一倍強いもんね。

長年の付き合いだから、どのような時にどんな言葉をかけるのか手に取るようにわかるし。

そして、突然何も言わずに逝ってしまったことを今は責めてもないよ。

むしろさ、そっちはやることたくさんあって大変じゃない?
ゆっくりできていれば良いけれど、大変なら今の俺に愚痴とか言ってきそう…。

ところでさ、病院のお見舞いが会うことが最後になったけれど、呼んでくれてありがとう。あの時お見舞いに行ってなかったら、自分も誠二も責めてたかもしれない。

それとさ、最後にしたLINE電話も嬉しかった。あれ、看護士さんに黙ってかけてきたことも知ってる。「無理しなくていい」って言ったのに、誠二からかけてきてびっくりしたよ。

たわいもないことを話せてたし、元気な声が今でも耳に残ってるから。

そして誕生日おめでとう。今そっちで楽しくやってくれていれば安心してる。美味いご飯が食べれて喫煙所もあると良いけれど。

誠二がさ「もし何かあったら俺のこと書いてよ」って言ってたけれど、誠二の半生はマンガみたいにぶっ飛んでるから気合いが入った時に書くよw

忙しいのに長々となってごめんよ。でもさ、しっかり文字として残したから今日はこれで勘弁して🙇

今の誠二ならきっと「書いてくれてありがとうございます。忙しいのにごめんなさい🙇」「料金は母親からもらってください」と言ってるはずw。

最後になるけど今ままでありがとう。先を急がずにもう少し一緒にやり残したことをやりたいと思ってたけれど…。

だからさ、うちにいつでも遊びに来てよ。そして昔話をしようぜ。酒も用意しておくから。

さよならは言わない。今でも近くにいることを知ってる。
そしていつまでも幼なじみでいよう。

ありがとう。

健一より。


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