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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)111

第7章 秒刻みの犯罪(15)

3(承前)

「最初から?」
「ああ。栗山君は別荘で水着に着替え、そのままの姿で櫻澤邸へ向かった。これなら服のことなど、まったく心配する必要はないだろう?」
「裸で櫻澤邸へ? 森の中へ入れば人目はなくなってしまうからいいでしょうけど、別荘から森にいたる道には、大勢の観光客がいたんですよ。水着一枚で歩いたら、目立って仕方がなかったはずです」
「ところがそうでもないんだ。あの日、水着姿で出歩いていた人はたくさんいたらしい。気温も高く、大勢の人が遊泳場を利用していたからね。水着で道を歩いていても、決して不自然じゃなかったんだよ」
 私は口をつぐんだ。どう反論しようと、日向は自信に満ちた態度で答えを返す。亮太が犯人であると確信しているのだろう。おそらく、警察も同じように考えているに違いない。そして私も――。
 信じたくはないが、やっぱり亮太が櫻澤を殺したのだろうか。
「栗山君犯人説に対する君の反論はおしまいかな?」
 私は黙って、日向を睨みつけた。
「おかしいな。もうひとつ、君にはとっておきの切り札があるはずだけど」
 え?
 彼の言葉の意味がよく呑み込めず、首をかしげる。
「栗山君を犯人と断定するには、たったひとつ大きな障害があるんだよ。彼は事件当日の午後四時四十分、公衆電話から君の自宅に電話をかけたと証言している。君は留守だったから、留守番電話にメッセージを入れた、と。そして、君はそれを肯定したね?」
 ああ。
 私を訪ねてきた刑事が、なぜあのような質問を最後に投げかけたのか――私はようやくその真意を悟った。
 もし亮太が犯人だとしたら、午後四時四十分に私に電話をかけられたはずがないのだ。その時刻、彼は湖を横断中だったのだから。
「栗山君からのメッセージは、本当に録音されていたのかい?」
 日向の視線は、凶器となって私の胸に突き刺さった。
「栗山君を庇おうとする気持ちは、痛いくらいわかるよ。でも、これは殺人事件だ。大切な命が奪われているんだよ。お願いだ。正直に答えてほしい。栗山君からの電話は、本当にあったんだね?」
「それは……」
 私の声は震えていた。
 あの日、亮太から電話などかかってはこなかった。留守番電話には誰からのメッセージも入っていなかった。
 亮太は嘘をついた。なぜ?
 信じたくはない。信じたくはなかったが、あらゆる状況証拠が亮太犯人説を示している。
「……やっぱり嘘はつけない」
 湖の向こうにそびえる小高い山を見つめながら、私は呟いた。
「あの日、留守番電話には誰からのメッセージも入っていませんでした。亮太は、私に電話などかけていないんです」
「やっぱりそうか」
 ため息をつく日向に近づき、力いっぱい袖を引っ張った。
「でも、お願いです。警察にはまだ黙っておいてください。せめて、亮太の試合が終わるまで……」
「もう一度訊くよ。留守番電話には、誰からのメッセージも入ってなかったんだね?」
「はい。でも、今は内緒に……」
「ああ」
 彼は気のない言葉を返すと、難しい表情を張りつけたまま煙草に火をつけ、遠くを眺め始めた。
 全身から力が抜け落ちていく。私はへなへなとその場に座り込み、前方の湖に目をやった。鮮やかなブルーに彩られていたはずの湖が、なぜか今は暗くよどんだ群青色に変化している。まるで、私の心を映し出しているみたいだった。
「湖が黒い……」
「ああ。太陽が西の山に隠れてしまったからね。南西方向に高い山がそびえているから、このあたりは暗くなるのが早いんだ」
 白い煙を宙に吐き出し、日向はいった。
「水口刑事はとても頭の切れる人だよ」
 しゃがみ込み、私の耳もとにそう囁く。
「君の嘘など、とっくに見破っていると思う。果たして彼は、どこまで真実に近づいているんだろうな」
 煙草のにおいが漂ってくる。
 その香りに、なぜか私は懐かしさを覚えていた。

つづく

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