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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)143
最終章 カム・バック(16)
4(承前)
「彼は誘拐したユタカ君を、義父である櫻澤のもとへ預けることを決めました。櫻澤邸なら、滅多に人が訪れることもありませんから、誰にもユタカ君の存在を知られずにすむ──そう思ったんでしょう。そして事実、そのとおりになったんです」
「自分の娘たちとも疎遠になっていた櫻澤氏が、黒井先生の頼みをすんなりと受け入れるかな?」
日向が尋ねる。
「娘婿である黒井夢魔とは、案外仲良くやっていたのかもしれませんよ。櫻澤も黒井さんも、清子のことを嫌っていましたからね。共通の敵を持ったことで、おたがいに親近感を抱いていたのかもしれません」
「櫻澤氏は偏屈な男だったんだぞ。幼い子供を預かって、二人でうまく暮らしていけたと思うかい?」
「亜弥ちゃんの話を思い出してください。私たちは櫻澤を、人間嫌いの変人だと決め込んでいましたけど、本当の彼は寂しさに耐えかねていたんじゃないでしょうか。血は繋がっていませんでしたが、櫻澤はユタカ君のことを孫のように可愛がっていたんだと思います」
こうして、櫻澤とユタカの奇妙な共同生活が始まった。ユタカが行方不明になったのは五年前の春、櫻澤邸に配達される食料の量が増えたのも五年前の春と、見事に一致している。
「櫻澤がユタカ君と共に生活していることは、黒井さんしか知らない事実でした。櫻澤も、ユタカ君を人目に触れさせようとはしなかったでしょうしね。黒井さんにそう頼まれたってこともあるでしょうけど、櫻澤の性格からして、たぶんユタカ君を独り占めしたかったのではないでしょうか」
私はレースの展開を気にしながら、早口で話を進めた。
黒井にとって、ユタカは絶対に失ってはならないブレインだった。入院中も櫻澤に電話をかければ、ユタカの空想話を聞くことができる。これで、なにもかもうまくいくはずだと考えたに違いない。しかし──。
「晴佳さんが翼君を連れて、二十年以上ぶりに櫻澤邸へやって来たとき、事件は起こりました。具体的になにがあったのか、そのあたりのことはよくわかりません。事故なのか、過失なのか、とにかく櫻澤はユタカ君を死なせてしまったんです」
皆の間にどよめきが起こる。
「一体、黒井さんになんといって詫びればいいんだろう? 櫻澤はさんざん悩んだあげく、恐ろしいことを考えつきました」
翼は、虐待を続ける母親を嫌っていたに違いない。櫻澤はそんな彼の気持ちを即座に見抜き、「うちの子供にならないか?」と持ちかけたのではないだろうか。
「去年の冬に起こった悲劇──あれは最初から、仕組まれたものだったんですよ。翼君は櫻澤の指示に従い、湖で溺れる真似をしてみせました。頃合いを見計らって水中に潜り、さも溺れ死んだように演じたんです。『翼は泳ぎの得意な子だった』と櫻澤がいってましたけど、実際そのとおりだったんですよ」
湖から遺体が発見されたのは、それから二日後のことである。見つかった遺体は、翼ではなくユタカだったのだろう。しかし、遺体は腐敗が進んで判別がつきにくくなっていたし、おそらく身もとの確認を行なったのは櫻澤だ。遺体は翼でないと疑う人物など、一人もいなかったに違いない。
私は空を仰いだ。涙がこぼれそうになり、慌てて深呼吸をする。
つづく