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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)138
最終章 カム・バック(11)
3(承前)
「見落とした可能性だってあると思うけど」
「いいえ。犯行後、レイクサイドロードを通ってゴンドラ乗り場まで行ったなら、誰かが亜弥ちゃんの姿を見ているはずですが、これまでそのような証言はひとつもありません。森を通ったとしたら、五時五分には間に合いません。なぜなら彼女は、四時半にはまだ屋敷の中にいたはずですから」
「どういうことです?」
刑事が割り込んでくる。
「川嶋さんが櫻澤邸にたどり着いたのは午後四時過ぎなんですよ。それからすぐに櫻澤さんを殺したのだとしたら、森を抜けて五時五分発のゴンドラに乗り込むことは可能でしょう?」
「たとえ四時過ぎに櫻澤を殺したのだとしても、四時半までは屋敷にとどまっていたはずです。そうでなければ、荒瀬さんが櫻澤邸にやって来たとき、入り口の鉄門が開くわけないでしょ? ほかに鉄門を操作できる人物はいなかったんですから」
私は続けた。
「午後四時半に鉄門を開けたのは亜弥ちゃんです。四時半に櫻澤邸にいた人物が、どうして五時五分のゴンドラに乗り込めます? 亜弥ちゃんは、亮太みたいに湖を横断することなんてできません。彼女の千五百メートルのベストタイムは三十二分なんですから」
「いちいち反論して申し訳ないんだけど、川嶋君の犯行は可能だよ」
口ひげを撫でながら、日向がいった。
「君のいうとおり、鉄門を開けたのは彼女だろう。四時半過ぎまで彼女が櫻澤邸にいたのも間違いない。でも――だからこそ、彼女は五時十九分発の列車に乗ることができたんだよ」
「申し訳ありません。もう少しわかるように説明してもらえますか?」
刑事の言葉に、日向はポケットを探り始める。
「四時三十三分に撮影された写真のことを思い出してくれ。何者かが湖に飛び込む瞬間を写した一枚だ。その人物はカメラのほうに向かって飛び込んでいた。つまり――」
ポケットから、美神湖のガイドマップを取り出した。
「※印がカメラの設置された場所、×印が撮影地点だ。正面に飛び込んだということは、その人物は矢印の方向に泳いだと考えるべきだろう(図2参照)。要するに、川嶋君はスーパーのトラックが停めてあった場所まで泳ぎ、荒瀬君が戻ってくる前にトラックの荷台へ隠れたんだよ」
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これも、亮太の推理したとおりだった。水着に着替えた亜弥は、それまで身につけていた服をビニール袋の中に詰め込み、それを持ってトラックの停めてある場所まで泳いだのだろう。あとは、荷台に隠れていればいい。荒瀬の運転するトラックは、午後五時過ぎには駅前に到着しただろうから、五時十九分の電車に乗ることなど造作なかったわけだ。
「荒瀬さん。遺体の横に転がっていたというぬいぐるみを提出してもらえますかね。大切な証拠物件になりますので」
刑事がぶっきらぼうにいった。
「ちゃんと持ってきてるから、心配するなって。昨日、日向さんから電話をもらったとき、こうなることは予測していたからな」
荒瀬はウェストバッグの中から小さなクマのぬいぐるみを取り出すと、それを刑事に手渡した。
「あ……」
そのぬいぐるみを見た途端、私を悩ませ続けたパズルはついに完成した。
クマのぬいぐるみ。
頭の隅に引っかかって離れなかった大きな矛盾。
『でもね、亜弥は櫻澤を殺したりはしていませんよ』
昨夜の亮太との会話。
『非力な彼女に、櫻澤の遺体を地下室から玄関まで運ぶなんてことができたでしょうか? 真犯人は、別にいると思うんです。じゃあ、一体誰なのか? それを解く鍵は、先輩と僕の頭の中で引っかかっているなんらかの矛盾にあると思うんですよね』
矛盾が──わかった。
競泳プールの亮太を見る。彼は、さらにひとつ順位を落としていた。脚がまるで使えていない。たぶん、亡霊に苦しめられているのだろう。
いや、違う。亡霊なんて存在しない。
肉体が滅んでも魂は生き続ける──たとえそれがこの世の真理であったとしても、亮太を苦しめているものは、断じて亡霊なんかではない。
なぜなら――。
つづく