僕たちの嘘と真実Documentary of 欅坂46
きもちわるい。
きもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい、
こんなのわたしは許容できない。
しんどかった。
ステージに立つ怖さ、私にはできないという不安ですら無い拒絶、直前に逃げ出したくなる重圧、彼女らのそれとは規模は到底違うけれど、それでも吐き気がするような感情に苛まれて、
きもちがわるい。
わたしはなにもわかっていなかった。
嵐を好きになるまではアイドルなんて全部見目がメインで歌なんて半端者だと思ってたし、
これを見るまでは女性アイドルも、なんとなく薄っぺらくて表現なんて二の次で、なんなら仲が悪くてぎすぎすしてるんじゃないかと思っていた。
とんだ偏見だ。
あれは、少なくとも欅坂は、もはやアイドルですらない。
秋元康の育てたアイドルは、これも伝聞だけのイメージであったんだけれど、会いにいけるアイドルという印象が強くて、作品ではなく人を見ていくコンテンツだと思っていた。
とんでもない。むしろライブに行ってもいないかもしれないんだ、
あれは欅坂というアートであって、人ではない。偶像というのもそぐわない。
人ではなく作品を下ろすための舞台仕掛けだ。
作品を下ろすための依代となった平手友梨奈、
その代償に彼女そのものはどんどん押しやられていって、
でも、だからこそ、その身を削って宿されるパフォーマンスはどうしてもこちらの心を揺り動かす。
あんなの見入ってしまう。
だけど、わたしはそれを許容できない。
ステージというものは、人の期待というものは恐ろしくて、だからこそ自分の意志で上がって覚悟を決めて挑んだものしか、私はそもそもそれを受け入れられない。
どんな顔をして見ろというんだ。
あんなところを撮影して映画にまとめるのもどういう神経だよきもちわるい、と思った、
でもこうして少し書いてみると、ああまでしたものをどこにも見せずに葬っていいのかとも思う。
きもちわるい。
櫻坂となった彼女たちは、最後に「これからも私達に期待していてください」という。
いいのか、ほんとうに、
あんだけ苛まれていた彼女たちがそれを言うのか。
これから見せようとしているものは一体なんなのか。
あれを見せられたあとで、私達消費者はどうするべきなのか。
欅坂の歌は、作品は、どうしても私の心に刺さり、代弁してくれる。私の声にならないもがきと向き合い、叫んでくれる作品だ。でも、だからこそ、誰よりも向き合ってくれた彼女が安らげますように。
結局、あのあと彼女たちが選んだ道というものを見たいと思ってしまう。欅坂を経てその次に、どんなパフォーマンスを見せようとするのか。願わくば、それが彼女たちの望む道でありますよう。そしてそうではなかった時、ペンライトを降る手を下ろせるようでありたい。
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