東京日記 上野
国立西洋美術館で開催されているセザンヌ展へ行くために、おれは京成上野駅を出た。いつものように中央通りから階段を上って、西郷さんの像の横をすり抜けようとすると、銅像の前には黄色い規制線が張られて警官が立っていた。
「園から豹がぁげ出しまぃぁ。ぅ野公園は封鎖されていぁぅ、上野公園」
小柄な女性の警察官が拡声器を使って何度も同じセリフを叫んでいる。彼女の持っている真っ赤な拡声器はところどころ声が割れ、良く聞き取れないので、規制線の前まで近づいた。
豹が上野動物園から逃げたのか。
彼女の声に気を取られているうちに、突然に背中に圧と猛烈な熱を感じる。後ろを振り返ると階段の下から、顔に靄がかかって見えないが、学生服をきた女子高生、スーツをきた会社員、手押し車を押している老婆など、紋切型の格好をした白く顔を潰された人間たちが一つの絡まりになってどんどん規制線のところへ押し寄せる。次々と人がやってくる。ついには満員電車のように体を圧迫してくる。これは夢なのか。後ろから人のかたまりが押しよせるので、おれはマラソン大会のスタートの先頭選手のようになってしまった。左右を見渡すとも顔が白く潰された人たちで、彼らは西郷隆盛像にスマホを向けている。ここから引き返そうとしても、この人混みでは自分の力では戻れない。首筋から汗が流れる。
暑い。
なんだか呼吸が苦しくなって、空を見上げると入道雲がもくもくと広がり、切れ目を飛ぶヘリコプターの姿が蚊のように小さく見える。
ぼんやりその姿を眺めていると、群衆の中から声がはじけ飛んだ。
性別や年齢など様々な属性の声を握り固めて黒くなったような声だった。
「あっ出てきた、豹か。豹だ。豹。あれ、登った」
咄嗟におれは西郷像を見る。豹がぐにゃりと体丸め、西郷の頭上に鬘のように覆いかぶさり、尻尾を西郷の顎にぺたぺたと打ちつけている。
豹の姿は茶色の斑点が多いバナナのようだった。その萎みかけの風船のようなぶよぶよとした豹の姿を見ると何だか無性に腹が立つ。これはおれの知っている豹じゃない。
警官たちは西郷像の周りを取り囲み、豹に向かって拳銃を構えると、豹は西郷さんの頭から飛び跳ねた。警官たちは豹に向かって拳銃を撃った。銃声はぷしゅ、ぷしゅと空気が抜けるようなマヌケな音だった。弾は豹の体に当たらない。豹は体を前転しながら、着地をし、拳銃を撃った警官の一人を頭から袋を被されるように食べた。警官を丸呑みし、膨れたはらを引き摺りながら豹は西郷像のまわりをぐるぐる回っている。警官たちも豹の周りを囲むが規制線まて後退りする。
「逃げて、逃げろ。危ない、危ないから」
警官のひとりが叫ぶ。自分に言い聞かせいるのか。逃げろと言っても振り向くと、押しずしのように人が固まっており、中央通りまでは引き返せない。
じりじりとした、沈黙。警官も黙る。
突然、人々はどたどたと規制線を越えて豹の方に向かって一斉に走りだした。濁流に流されるようだ。おれも上野公園の中へ流れ込む。豹のことなど、忘れるように走る。走る。どこへ行けばよいのか分からず、公園の中をひたすら走った。
こんなに走ったのは高校のマラソン大会以来だ。袖口を見ると、おれは展覧会へいくのに、会社へ行くようなスーツを着ていた。おれは学芸員だったか。下ろしたての革靴で走っているので足首辺りがまだ固く、足首をくじきそうな予感がする。
逃げ出したのは豹だけではないようで、上野公園のあちこちに動物たちがあふれている。
野球場のピッチャーマウンドのあたりには、像が歩いていて、博物館前の噴水広場のあたりには機動隊のジェラルミンの盾に囲まれ、のそのそ動く熊が遠目に見える。
桜並木の道をのろのろと足を引き摺るように走る真横から、猛スピードで走り出す日本猿にすれ違い、桜の花びらをキリンが食べていた。
桜の道を抜けるとやはり、靴が足に合わないので、足首が痛くなり、ついでに横腹も痛くなり、走れずに歩き始める。もはや何に逃げているのか自分でも分からない。疲れ切った。豹に喰われてもいい。公園の中をぐるぐる回っている。気が付けば、おれは不忍池のほとりへ来ていた。結局、上野公園を一周してしていたのだ。
何に対してなのか、わからないが、なんだか、馬鹿らしくなって声を上げずに笑ってしまう。
池の真ん中にある弁天堂に人が座っている。
石段へ腰掛けるために弁天堂へ繋がる橋を渡った。
お堂の前では、おれと同じように走りつかれた人たちが座り込んでスマホを操作したり、ペットボトルの水を飲んでいたり、思い思いに休んでいる。そこだけ日常が口を開けていた。石段は人でいっぱいだったので、賽銭箱に背中を預けて休む。ネットを見る気にもならない。隣にはさっき西郷像の前で拡声器を使って叫んでいる女性警官が膝を抱えて座っていた。彼女は無事だった。よかった。
首筋あたりに視線を感じる。方向から言ってお堂の方だ。立ち上がってお堂の中の格子が嵌められたガラス戸を覗き込む。豹がいた。豹の目はお堂の底で白く光っていて、目が合う。背中に針を刺されたようだった。