細川幽斎屋敷跡を巡る記録~弾丸京都旅~
昨年の旅記録、やっと半年を超えました(笑)今回は京都へ行った時の記録となります。
事の顛末
2020年9月12~13日にかけて、京都・本能寺にて岐阜県とのタイアップイベント「光秀と信長ー天下布武への道ー」が開催されました。主催は、岐阜県大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会さん。『麒麟がくる』放映中だったこともあり、織田信長公と明智光秀公にゆかりのある本能寺であったイベントです。こちら、噂だけは聞いていたのですが遠方だしお財布もきつい時期で行けないな~(行ってみたいけど)、といつものようにスルー予定だったんですが……ですが……私の大好きなおもてなし武将隊、「京都長岡京おもてなし武将隊つつじ」さんが参陣されると聞き……悩みに悩んだ末、弾丸してきました。
お供は小川新聞社さんからお迎えした麒麟ちゃん。
新幹線で弾丸、あまりしない体験です(笑)というか、新幹線にめったに乗らない。なぜなら飛行機が好きだから。しかし……住まいから京都……ていうか京都に空港、ないですからね! 大阪周って行くのも愚者の所業です。なにより金がない!(そこ)なので、素直に駅弁を買って新幹線で当日ビュンです。二日間開催されるので、泊りがけで武将隊さんの演舞を見てすぐにトンボ返り! という詰め込みのスケジュール。
「伊達♡」と思って買いましたけどこのお弁当の家紋、細川家から貰ったやつですよね? いや良いと思うんですけど!!!(笑)
豪華なおかずで大満足なボリューム!(はらこ飯大好き)
おもてなし武将隊を堪能
そして京都到着、すぐさま本能寺へと向かいます。
ちょうどこの頃は、隣接している大賓殿宝物館で「本能寺寺宝殿と信長☓光秀」を開催されていました。右左の話じゃないですよ(分かるよ)こちらは有名な香炉「三足の蛙」があったり、この時は明智光秀継承会様の協力もあって光秀公の文書や甲冑なども多く展示されていました。
そして(個人的)メインのおもてなし武将隊。めちゃくちゃ楽しかったです!!!!!!!
写真が下手くそで本当に申し訳ございません……。
こちらの武将隊さんは明智家、細川家、両家の家族で構成されているので誰得って俺得なわけですよ! 音楽に合わせて殺陣や舞をされる「演舞」とは他に、明智光秀やその娘・玉、縁深かった細川家の様子などを見せてくださる「お芝居」があって、演舞は何度か拝見したことあったんですが(youtubeなどでも見れます)お芝居は初めてで……! 楽しかった~面白かった~細川~!!※心のペンライトを振る って感じでした……。合掌。
「細川家でお写真よろしいですか?」とお願いしたら快くポーズをキメてくださった皆様(涙目)一番右が細川忠興様、真ん中が細川藤孝様、そして左が松井康之様。奥で左を向いているお三方は明智家の皆様(たま様本当に美人だしツイッターは天女ですね控えめに言って……)
そう、ツイッターやフェイスブックは常にリアルタイム更新されていますのでご興味ある方は是非ご覧くださいね!!
一日目の演舞が終了した後、日暮れまで時間がありましたのでせっかくなら、と現在の本能寺(有名なお話ですが、かつてあった本能寺とは場所が変わっているんですよね)からほど近い場所にあったとされる細川幽斎邸の位置を確認しよう! という試みをしてきました。
本題・細川幽斎邸の場所
幽斎様が晩年に住んでいたとされ、また死去されたというお屋敷跡は『車屋町』と呼ばれる場所にあったとされています。
まずは先の地図で示した車屋町の区画。
道路を入って中ぐらいから突き当り、道路を挟んでその奥までの様子。道路を挟んだ奥はもう一区画くらいありそうなんですが、現在はホテルになっていました。そこはかとなく古い色合いの町並が伺えます。
車屋町の一画に老舗っぽいお菓子屋さんを発見したので立ち寄りました。あとあと調べたところ、大変有名なまさしく老舗店だったのですね……。1804年創業の亀末廣さん。こちらで、夏の名物と聞いていた「葛焼き」を一ついただきました。
お店の方に尋ねたところ、こちらのお店は創業が江戸末期頃とのことで、江戸期はもうすこし南に店舗が位置していて、明治頃のはっきりした記録ではすでにこの車屋町に店があったのだとか。
葛焼きはとっても美味しかったです! 麒麟ちゃんも大満足。
ここからは、車屋町から足利邸があったとされる二条方面へと歩いてみました。ルートは上の地図通り。
烏丸御池の遺跡地点を確認(この近辺は、金融関係のビルが多いんですね。一等地だなあという感じ)そこから二条殿跡付近を探索。石標はマンガミュージアムの入口側にあったのかもしれません。
本能寺の変時に、信長公嫡男である信忠公が立てこもって討ち死にしたとされる二条城はこの位置です。
更に歩いて武衛陣所跡地、つまり足利義輝公が政務を執り行っていた御所があった場所までやってきました。車屋町からは約1.3km、私は歩いて10分くらいでした。現在はご存知、女学院の敷地内にすっぽり。
一つ分、区画を歩いてこちらもまだ女学院の敷地内。旧二条城跡地、信長公が将軍義昭のために建設した場所で、ここをほぼ中心として結構な広い範囲を敷地と定めたようです。
歩いてきた場所がほぼ含まれている広さ。堀があったらしいので、それを考えるともう少し狭かったりするのかもしれません。推定値なのでなんとも言えませんが、ぐるぐるとそんなこと考えたり。学校の前をウロウロして不審者極まりなかったですね……。
総評
細川幽斎、なんだかんだ言って死ぬまで足利の家臣だったっていう矜持があったんじゃないかな~~~!?!?(希望的観測と願望)
伝わっている場所を見ていったわけなんですけど、幽斎様もあちこちに転戦して主君を変えながら生き抜いてきて、それでも隠居した後、最後の最後に過ごしていた場所はやっぱり京で……離れ難かったのかな……。元々幕臣として足利義輝公に仕えてきた経歴があるわけですし、一番最初の主君は義輝公なんですよね。その義輝公が最期に果てた場所から、徒歩で16分しか離れていない場所に屋敷を構えていたんだな……と思うと……。こう……。あるんですよ……。(いわゆるクソデカ感情)
今回も歩きまわって大変楽しかったです。こういうのって一人じゃないとなかなかゆっくりじっくりできないから……!笑(地図片手に延々と距離感を確認しながら無言で歩き続けてメモを取るって人とやりにくいな、という意)数年ぶりとなる京都、強行軍でしたが行きたいところへ行けてよかったです。