村上縫殿介景則に関するメモ
日々拝読しているブログサイト「津々堂のたわごと日録」にて、『村上縫殿介景則』という人物の名が目に留まりました。確か、肥後・八代時代に三斎様に仕えてた人……だったような???
こちらも同ブログサイト様より引用させていただきました。そちらによると、中津で迎え入れた人物のようです。うむうむ、なるほど……。
八代期の三斎(忠興)様については私もまだまだ勉強中で、詳しくないのですが、どうも家中においてややこしいポジションにおられたようです。ざっくり言ってしまうと「困った隠居おじいちゃん」ポジションと言いますか、跡を継いで熊本を治めることとなった忠利公および孫にあたる光尚公も、三斎様の行動に頭を悩ませていたらしい。
そんな三斎様の遺言というのが「自分の亡き後は立孝に八代を譲る」というものだったようですが、これが熊本藩としては大きな問題だったと。ですが、村上縫殿介景則はこの遺言を守ろうと動いていた側の人なんですね。三斎派ということでしょうか。
まあそのあたり、三斎様晩年の家中あれこれに関してはとってもややこしいので、また別件でまとめる機会を取りたいと思います。
今回は、気になった人物「村上縫殿介景則」は早速調べてみることに。こんな風に、徐々に細川氏(や松井氏)の家臣クラスの人々にも目を向けて、チリツモしていきたいですね。
村上縫殿介景則(長岡河内、長岡景則)
一万石も貰って家老を勤めた人物なら、綿考輯録にも載ってそうです。読まねば……。しかし、細川家へやってきた時期が分かっているので探しやすそうです。画展の図録とかも見なきゃ。また調べ物が進んだら書きたいと思います。
追記 2/8
毛利家臣の友人などに聞いて村上氏の流れを少し調べた。やはり景広の「景」は小早川隆景公から偏諱されたもので間違いないようだ。村上水軍ミュージアムに行きたい。
手元にある確かな信用資料が綿考輯録しかないもので(永青文庫や松井文庫の資料(図録等)はまだ追いついてない。)少しずつではあるものの人物像を埋めていきたい。
私が知りたいのは景則が「八代隠居時代の三斎のそばにずっといたのか否か」ということなのだが……あわよくば小説のネタにしたいんだな。ただ彼が「御暇願」を出していることは確かなようなので、自分の目で確認したい。どのタイミングで出されているのか、とか。
閲覧いただき誠に有難うございます。よろしければサポートでの応援よろしくお願いいたします。史跡巡りや資格勉強の資金にさせていただきます。