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村上縫殿介景則に関するメモ
日々拝読しているブログサイト「津々堂のたわごと日録」にて、『村上縫殿介景則』という人物の名が目に留まりました。確か、肥後・八代時代に三斎様に仕えてた人……だったような???
長岡河内(村上縫殿介景則)
備中笠岡城主村上景広(豊前にて10,000石)の子、景広死去後、中津で三斎に仕え10,000石。三斎の八代入城後も家老として近侍、死去後は三斎の遺言に沿うべく行動するも、光尚の受け入れるところとならず離国した。
こちらも同ブログサイト様より引用させていただきました。そちらによると、中津で迎え入れた人物のようです。うむうむ、なるほど……。
八代期の三斎(忠興)様については私もまだまだ勉強中で、詳しくないのですが、どうも家中においてややこしいポジションにおられたようです。ざっくり言ってしまうと「困った隠居おじいちゃん」ポジションと言いますか、跡を継いで熊本を治めることとなった忠利公および孫にあたる光尚公も、三斎様の行動に頭を悩ませていたらしい。
そんな三斎様の遺言というのが「自分の亡き後は立孝に八代を譲る」というものだったようですが、これが熊本藩としては大きな問題だったと。ですが、村上縫殿介景則はこの遺言を守ろうと動いていた側の人なんですね。三斎派ということでしょうか。
まあそのあたり、三斎様晩年の家中あれこれに関してはとってもややこしいので、また別件でまとめる機会を取りたいと思います。
今回は、気になった人物「村上縫殿介景則」は早速調べてみることに。こんな風に、徐々に細川氏(や松井氏)の家臣クラスの人々にも目を向けて、チリツモしていきたいですね。
村上縫殿介景則(長岡河内、長岡景則)
能島村上氏の出身。父は村上景広、二男にあたる。
つまり、いわゆる「村上水軍」でしょうか。毛利方などの資料を探せば詳しく分かりそうです。メモ。
父景広の代に細川忠興に仕え、知行一万石。景則は景広同様に重用され、長岡の姓も与えられ河内守を称した。 忠興が小倉から中津へ移り、隠居した後は彼につき、肥後国へ移封した際にも三斎について八代へと移り、家老を務めていた。
「縫殿介」とは縫殿寮の次官で、従六位上相当の官僚のこと。律令体制時代の話なので、当然忠興の時代には肩書のみ。
本名が「景則」というのは、父景広から一字を取ったものと思われますが、元が能島村上氏……ということを考えると、もしかして小早川隆景公から一字もらっている?
一万石も貰って家老を勤めた人物なら、綿考輯録にも載ってそうです。読まねば……。しかし、細川家へやってきた時期が分かっているので探しやすそうです。画展の図録とかも見なきゃ。また調べ物が進んだら書きたいと思います。
追記 2/8
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毛利家臣の友人などに聞いて村上氏の流れを少し調べた。やはり景広の「景」は小早川隆景公から偏諱されたもので間違いないようだ。村上水軍ミュージアムに行きたい。
手元にある確かな信用資料が綿考輯録しかないもので(永青文庫や松井文庫の資料(図録等)はまだ追いついてない。)少しずつではあるものの人物像を埋めていきたい。
私が知りたいのは景則が「八代隠居時代の三斎のそばにずっといたのか否か」ということなのだが……あわよくば小説のネタにしたいんだな。ただ彼が「御暇願」を出していることは確かなようなので、自分の目で確認したい。どのタイミングで出されているのか、とか。
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