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中央区と江東区との驚き区境は島
23区全区境踏破第16回
前回まで13回にわたって千代田区の区境を歩いてようやく中央区の区境を歩きますが、なんと中央区は今回1回でおしまいです(笑)。
第1回で申し上げましたが、私の区境踏破は海岸線は歩きません。また隅田川、多摩川といった23区内では大きな河川沿いも歩きません。
したがって海と隅田川に面している中央区の踏破対象部分は少なく、また一番長く境を接しているのは千代田区なのですが、ここは前回までで歩いてしまっています。
ということで踏破対象は北側の台東区との境部分と、南側の港区との境部分、そして江東区との本当にわずかな東の境部分になります。
北側のスタート地点は馬喰町駅そばの千代田区・台東区との三区境がある左衛門橋からとします。付近の神田川は江戸時代になって切り開かれた人工水路です。左衛門橋などの上から見ると、真っ直ぐなのがよく分かります。
区境である神田川と並行して南側を走る柳原通りを浅草橋方面に行きます。しばらくすると左手に開智日本橋学園があり、その校舎隅に、付近から出土した江戸城外堀石垣石が置いてあります。おそらく神田川の江戸城側は、部分的に石垣で固められていたのでしょう。
校舎の先に東日本橋交番があり、その脇に郡代屋敷の解説板があります。郡代とは幕府領を支配する役人のことで、この近くには関東郡代の屋敷がありました。関東郡代はの関東の幕府領を管理していました。関東の幕領での土地境界争いなどの揉め事訴訟は皆ここに持ち込まれるため、関東各地からやってくる訴訟人が泊まる旅籠が付近には数十軒並んでいました。訴訟人が買う土産物屋も周辺に集まり、それが今の問屋街につながってきます。
交番は浅草橋の袂にあります。その前の交差点は、非常に変則的な六差路?八差路?でやたら広いです。これは江戸時代、日光街道が通る重要な浅草橋門がここにあった名残です。門が大きいだけでなく、周囲が広場になっていました。
この浅草橋門では江戸時代に大変な悲劇がありました。1657年の明暦の大火です。江戸全体で10万人が焼死したとの説もありますが、この橋では浅草方面に逃げようとした人が殺到したにも関わらず門番が門を閉めてしまい、逃げきれなかった人や川に落ちた人など2万3000人が亡くなったとも言います。
![](https://assets.st-note.com/img/1727591992-Kc5lyO4fPYZvQVpdRiCFXbmL.jpg?width=1200)
浅草橋交差点を越えて渡った両国郵便局の隣のビルには、なんと神社が入居しています。初音森神社という江戸時代以来の由緒ある神社ですが、1階の一角にちょっとした史料室があり、大火の記録などが展示されています。
驚くのがそこにある大きな丸太です。なんと総武快速線工事の際に地下から見つかった浅草橋門の門柱だと言います。焼けたようにも見え、大火の際に地中に埋まってしまったのでしょうか?
郵便局や神社の裏は神田川沿いの道で、たくさんの屋形船が浮かんでいるのが見えます。川の真ん中が区境です。隅田川の方に進むと一番河口に近い橋が柳橋で、そのまま道なりに進むと両国橋に出ます。明暦の大火当時は両国橋はなく、対岸に逃げられませんでした。その反省から橋が架けられましたが、当時は隅田川が武蔵と下総の境と認識されていたため、この名になりました。
ここまでで北側の境は終わりです。
しかしこの隅田川の下流に、一か所だけ陸地で中央区と江東区が境を接している場所があります。中央区の佃島へ行きます。最寄駅は東京メトロ・都営月島駅です。駅上の大通りを江東区方面に進むと、隅田川にかかる相生大橋があります。この橋の途中に中の島公園という公園があり、なんとこの中を区境が通っています。
その名の通りかつては隅田川の中洲で、そのため区境が通っているのですが、今は江東区側と地続きになっています。このためか公園は江東区の管理で、区境があるにもかかわらず中央区の「ち」の字もありません。公園には橋の両側の歩道から降りられるようにおり、橋の下を潜って両側を行き来できます。そこは潮入りの飛び石のようになっており、満潮時は海水が入り込んできます。区境は島の真ん中を通っているようですが、その線に沿っては歩けないので、橋の下を潜って踏破としましょう。
中央区は実は江東区とも陸地で接している。覚えておくと小ネタになります。
続いて南側の境です。
新橋駅近くの首都高土橋出入口に行きます。銀座付近の千代田区と中央区の境は未確定だと以前書きましたが、ここからの港区と中央区の境も未確定です。外堀を戦後に慌てて詰めてしまったという事情も同じです。
ここからは首都高下に「銀座ナイン」店舗街が連なります。この道路・建物は汐留川を埋め立てて作っており、この中のどこかに港区との境があります。素晴らしいことにこちらの1、2館はちょうど真ん中に通路があり通り抜けられます。この「仮想」区境を歩きましょう。。
銀座ナインを出ると交差点名は蓬莱橋。ここから先の海岸通りが元の汐留川で、やはり埋め立てです。この先の浜離宮は中央区で、道路との間の堀はもっと広いものでした。ですから海岸通りの車道内に区境があると思うのですが、ここも未確定です。しかし行政の看板などは全て港区となっています。
そして浜離宮に沿って汐留川曲がるところでやっと確定区境が復活します。東京都下水道局の汐留第2ポンプ場などのある岸壁部分が区境です。ポンプ場側は埋立地で、岸壁あたりがかつての汐留川中央線=区境です。この先区境は、隅田川との間の水門あたりを抜けて行きます。
次回からは港区境を歩きます。
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![歩いて、探して、歴史を発掘する黒田涼](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/16553550/profile_5960dcd4d4065b88138d6758e0927e7a.jpg?width=600&crop=1:1,smart)