見出し画像

江戸時代の村境から武家地との境界へ

23区全区境踏破第24回

「23区全区境踏破」の記事一覧

←前へ                       次へ→

 文京区境は、すでに南側3分の1ほどは紹介ずみです。千代田区編で飯田橋駅前から湯島駅あたりまで、新宿区編で早稲田駅あたりから飯田橋駅あたりまで歩きました。今回から残りの豊島区、北区、荒川区、台東区との境を歩きます。荒川区と文京区の境なんて、あるんですねえ。

 東京メトロの早稲田駅を降り、新宿区編でご紹介した豊島区との3区境、文京区立の肥後細川庭園前あたりから出発です。神田川から庭園の脇を西北に伸びる道の北側が文京区で南が豊島区です。ほぼまっすぐな道は近代にできたように感じますが、この道は北側の台地と神田川の作る低地の境の道で、江戸時代からほぼ変わりません。台地上には大名の下屋敷、いわば別邸・別荘が並んでいました。
 その道を脇道に目もくれず真っ直ぐに進むと、右手に公衆浴場がある先で、右にゆるりと曲がってその先が坂になります。名坂・日無坂です。この坂が区境で、江戸時代は坂の東が岩槻藩大岡家の屋敷でした。西側の武家屋敷との境の道が行政界になったのでしょう。

 曲がる手前、公衆浴場の手前の道も右に曲がると坂で、小布施坂と言います。こちらは大岡家の屋敷跡に明治になって株投機で儲けた小布施新三郎が邸宅を構え、新しくできた坂で、小布施の名ににちなんで命名されたものです。
 日無坂をゼエゼエ言って登り切ると、左に植物で覆われた家があります。広告写真などで使われたりしますが、いつまで残っているでしょうね。お早めに鑑賞を。
 登り切った上では別の一直線の坂が交わり、ものすごい鋭角の分岐、Y字路を作っています。一直線の坂は富士見坂。昭和になって水道敷設のために切り開かれた坂なので一直線です。坂の先に富士山が目そうに思いますが、まったく方向が違うので見えません。おそらく坂ができた当時もよく見えなかったと思います。謎の命名です。
 すぐ目白通りに出るので目白台二丁目の交差点を渡り、左に進んで最初の右の路地に入ります。右は文京区、左は豊島区です。江戸時代は右はお江戸の雑司ヶ谷町で、その裏は雑司ヶ谷村でした。豊島区域は上高田村で、古くからの村境なのです。
 路地に入っすぐに左で次を右に降って行きます。古地図を見ると明治の初期には江戸時代の町場までが文京区(当時は小石川区)なのですが、明治の終わりに文京区が少し張り出します。1889年に雑司ヶ谷村の一部を編入した記録があるので、その時に変わったのでしょうか。
 降った道のT字路を右に行き不忍通りに出る寸前でまた左に降ります。クネクネ進むと弦巻川跡の弦巻通りに出るので右へ。しばらくこの通りが区境ですが、地図では時々区境が道の左右にはみ出します。かつての川の屈曲の名残ですね。左側の駐車場は、この一角だけ文京区で、住宅との境の溝のような場所がおそらく区境で歩けます。
 すぐ先右側の大きなマンション前に菊池寛旧宅跡の解説板がありますが、その手前の坂を右に登ります。また目白通りに出るので、左へ行き、すぐ左へ下る道の奥に清土鬼子母神堂があります。有名な南池袋の鬼子母神像は、ここで戦国時代に掘り出されたと言います。誰かが弦巻川の上流で流してしまったのでしょうか?

 お堂の左側の細い道を行くと、右の路地入り口にちょろちょろと水が流れているお釜のようなものがあります。都内では大変珍しくなった自噴井戸です。周りの石垣など苔むして、じっとり感に溢れています。
 まっすぐ進んで弦巻通りに戻り右へ行きます。首都高が通る道に出ると向こうに護国寺の墓地が見えます。右に下って歩道橋を渡り、墓地ぞいへ右に登りましょう。護国寺は文京区ですが、墓地沿いのビルは豊島区です。首都高下の都道を直線化する際に取り残されたのでしょう。
 坂を登り切ったあたりに右斜めに入る道があり、この道が区境です。少し歩いて左に豊島区の鎮守の森公園があったら右に曲がります。このあたりは江戸時代の小石川村と雑司ヶ谷村の境です。突き当たりは左で、その先は右。この辺りからは巣鴨村との境に変わります。屈曲した道はかつては川でした。
 ここから先も区境は基本、小石川村と巣鴨村の境ですがかなり入り組んでいて、とても境通りには歩けません。地図を見ながら大塚六丁目の交差点に出てください。この交差点の広めの車道は、明治の初めに巣鴨監獄に向かうために作られた谷底の道です。巣鴨監獄跡は今はサンシャインシティなどになっています。
 交差点の東側の細い道を左に入り、少し上り坂になった先の右の路地へ入ります。区境は手前の崖沿いにあるのですが、道がないのでやり過ごしてこの道を歩きます。クネクネしながら崖上の細い道をいくと、右に降りる急階段があります。ここを降りると区境を横切り下の道に出ます。
 この辺り、江戸時代からの巣鴨村と小石川村との境は、この高台沿いの崖にあったようです。下まで降りた台地の裾の道を辿ると左手に仏文学者の鈴木信太郎記念館があります。豊島区立ですがぜひ立ち寄りましょう。素晴らしい書斎にため息が出ます。

鈴木信太郎記念館の書斎

 記念館先に左に登る細い階段があるので進むと東京メトロ新大塚駅前に出ます。駅周辺は江戸時代は巣鴨辻町で、今は文京区です。川越街道を渡り、大塚病院の方に行きます。向かう道右側に区境がありますが、住宅の中を入り組んでます。ここも町場が文京区で旧巣鴨村が豊島区でした。区境は大塚公園の中から東に曲がり、病院敷地内を通り続きます。
 この大塚公園や大塚病院の敷地は江戸時代は大分の豊後府内藩松平家の下屋敷で一体のものでしたが、なぜか明治以降、敷地内に線が引かれます。それは病院の敷地とは関係ないので境界の由来は不明です。
 病院内は通り抜けできないので、病院南側の都営住宅内の歩道を抜けていきます。東京都監察医務院の脇を通り、変則十字路を右斜め前に入ります。次の十字路を左で、すぐ右。まっすぐ行くと小さな階段を降りて千川通りに出ます。
 ここまでの境は、水戸徳川家分家の陸奥守山藩松平家の屋敷境です。屋敷側が文京区でした。区境は階段を降りる手前で右に折れ、通り沿いのスーパーの敷地先で曲がって出てくるのですが、これは千川通り沿いの田んぼが巣鴨村持分で、区境が曲がったところから南が小石川村持分だったためです。
 千川通りを目の前の信号で渡り、進んだ中の文京区立氷川下町児童遊園から左側へ進みます。この道はかつての「小石川」の川跡で、ややくねっています。少し進んでコンビニがある角で右に行き、長い坂、宮坂を登ります。江戸時代は坂の向こう側に鶴牧藩水野家の屋敷がありましたが、自治体境は敷地境とは異なるやや南側にあります。この宮坂は関東大震災後の新しい坂です。水野家の跡には明治期、松浦家の屋敷があったようです。
 宮坂をほぼ登ったところから左に入り突き当たり右ですぐ左。道なりに行くと東洋女子学園の校舎があり、そこを左で、正面の細い道をまっすぐです。区境は左の住宅地の中を通っていますが、江戸時代は文京区側は旗本や御家人の屋敷で、豊島区側は巣鴨村です。
 地形的には小石川の作る崖地の上が武家地、下が農地で村分です。東洋女子学園前から曲がって入ってすぐ左へ行くと、文京区と豊島区の住居表示版が仲良く並んだ路地が右にあります。道路整備をどっちがするか折り合いがつかないのか、入った道は砂利道です。
 ここでしばらくぶりに道と境が一致します。すぐに右へ曲がり、区境が一致したと思ったのも束の間、区境は突き当たりのビルの中に消えていくので左に行き、最初の角を右です。ここも巣鴨村と武家地の境なのですが、戦後の区画整理でこのようになってしまいました。
 しばらくまっすぐ進み、やや細めの道へ入ってT字路で右に行きます。すぐ先に中山道、国道17号があります。この曲がった道の左側は、江戸時代は中山道沿いの巣鴨町の町屋でした。その部分は「巣鴨」で豊島区になります。
 次の変則十字路は左前に入り、三つ目の十字路を左ですが、この左角の一部だけ文京区です。これはこの場所が、この十字路の右奥にある文京区側の子育稲荷の境内地だったためです。左へ曲がり、中山道に出ます。
 ここから右の中山道沿いは武家地だったため、この道が区境となっています。
 長くなったので今日はここまで、中山道沿いを左に行って、巣鴨駅から帰りましょう。途中の歩道に「徳川慶喜巣鴨屋敷跡地」との碑が建っています。慶喜は許されて静岡から東京に転居した際に、この碑と駅の間の左側一帯に屋敷を構えていました。しかし鉄道が開通すると聞き、四年ほどで小日向に引っ越します。

←前へ                       次へ→

いいなと思ったら応援しよう!

歩いて、探して、歴史を発掘する黒田涼
記事がよいと思っていただけましたら、お気持ち、よろしくお願いします。