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人工の運河、神田川が区境

23区全区境踏破第6回

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珍しい区境プレートを見て外堀通りを通り、飯田橋駅東口まできました。
ここはかなりの混沌プレイスです。
かつての外堀は暗渠になっていますが、その上に人工の水の流れが作られており、ご丁寧に橋まで架かっています。
橋には名前があり、飯田橋駅西口から「さくら橋」「けやき橋」「かえで橋」「ひいらぎ橋」という名なのですが、このうち「かえで橋」付近が区境で、ここより飯田橋駅西口側の自転車駐輪場は新宿区の管理、東口側は千代田区の管理です。
東口側の千代田区の駐輪場から外れた歩道のへりには千代田区の「駐輪禁止」のコーンが立っています。
しかしその後ろには「新宿区総合案内板」がどー〜ん。
エリア的には千代田区なのですが、歩道以外は新宿区であり、利用者の便を考えた掲示ですね。
しかしその先の歩道上にはなんと新宿区の「路上喫煙禁止」の表示が!
このあたりは地図を見てもはっきりしません。
禁煙表示の側に黄色い点字ブロックが続いていますが、このラインあたりが区境の気もします。
写真を掲載しておきますが、点字ブロック向こうの電話ボックスには「千代田区」の住所表示があります。
さらに駅東口方面に進むと橋としての飯田橋があり、区境はこの橋の中心を横切っています。
歩道部分で、数メートルの距離を置いて、千代田区と新宿区の駐輪禁止表示が睨み合っています。

混沌といえば飯田橋の交差点もかなりの混沌です。
飯田橋交差点は五差路ですが、すぐ脇に船河原橋と、神田川の対岸から向かってくる道があり、七差路に見えなくもないです。
江戸時代には、外堀に合流してくる神田川の出口部分、今とは全然違う場所に「船河原橋」があるだけで、外堀には橋はありませんでした。
明治になって外堀を跨ぐ飯田橋ができます。
その後神楽坂上方面から下る坂が合流し五差路ができます。
できた頃は道幅も狭くさほど問題はなかったと思われますが、自動車交通が盛んになると危険かつ混雑が激しくなります。
そこで少しでもネックを減らそうと、今の場所に新「船河原橋」を架け、外堀通りを東から来る車が、千代田区内方面に左折しやすくしました。

手前の「路上喫煙禁止表示」は新宿区のもの。向こうの電話ボックスの住所表示は千代田区

この新しくできた「船河原橋」と「飯田橋」の間で、外堀が少し顔を見せているところに、文京区も含めた三区の境があることは前回書きました。
新宿区と文京区のこの辺りの境界は神田川です。
ここから先、千代田区の区境は文京区との区境ですが、しばらくはとてもわかりやすく、神田川=外堀の中心線を区境は進んでいきます。

しかし例によって歩けないので、外堀に最も近い千代田区側の道を歩いていきます。
その道のすぐ右側はJR線の走る土手です。
実はこの土手は江戸時代に作られたものです。
もちろん江戸時代に鉄道のために造ったのではありません。
江戸城外堀の土手として江戸時代の初めからあったものを、明治になって鉄道路線に利用したのです。
江戸城の土手は幕府から移管された国有地であり、人も住んでおらず、簡単に鉄道にできたからです。
またこの辺りの土手は、城の土手としての役割とともに、江戸北方から押し寄せる洪水に対する堤防としての役割もありました。

しばらく進んだ小石川橋のところには、江戸城外堀城門の小石川門がありました。
神田川側に解説版があります。
すぐに水道橋駅西口で、駅北側の細い道を進みます。
線路下を潜って駅東口に出ます。
駅前の橋が「水道橋」。
橋の両側に江戸時代に書かれた絵のレリーフがあります。
橋の名は神田上水にちなむのですが、ここを神田上水が通っていたわけではありません。
ややこしいのですが、このさらに下流に水道管だけの橋があり、これを水道掛樋というのですが、これが見える橋なので「水道橋」としました。
江戸の名所でした。

橋を渡ってしまうと千代田区から出てしまうので、JR線の南側の坂を登っていきます。
さいかち坂と言います。
途中のビルのエントランス脇に、先にお話しした水道掛樋の模型があります。
坂は急坂ですが、交通量の少ない緑の多い気持ちのいい坂です。

登り切ると「駿河台」。
坂を登っていった道は、神田川からはだいぶ離れてしまいますが、すぐにお茶の水橋に出ます。
手前左の交番脇に「お茶の水」の碑があります。
この部分の神田川は大変深い谷になっていますが、これは江戸城の外堀として江戸初期に掘られた人工の運河だからです。
ものすごい工事量ですね。
工事前にはここに高林寺という寺があり、この寺の井戸の水が大変おいしく、将軍が飲むお茶の水にしたということから、お茶の水という地名が生まれました。
表記はいろいろですね。
「お茶の水」「御茶ノ水」
しかし神田川を掘ってしまったために寺は立ち退き、井戸はなくなりました。
しかし地名は現在まで残った、というわけです。

とりあえずお茶の水橋の中間まで渡って区境をイメージし、次の聖橋へ行きます。
両方とも明治以降の架橋です。
聖橋は昭和の建設で、その際に名称を公募し、北に湯島聖堂、南に聖なるニコライ堂があるのでこのように命名されました。

さて聖橋は渡ります。
この先、区境が神田川の北側に移るからです。
そしてこれまでの平穏な(笑)区境から、波乱万丈の区境へと大化けします。
次回お楽しみに。

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