紫煙をくゆらす
私事で恐縮ではあるが、
……というか普段から私事しか書いてないし全然恐縮もしてないけど。
今年の四月から禁煙を始めた。
「おいおい、意志の弱いお前にそんな事出来るわけないだろうが!帰ってパパのケツにキスをしな!」
と思う方もいるだろう。洋画か。
しかし、これがなかなかどうして順調である。
こう言ってしまうと禁煙で苦労されている方から顰蹙を買ってしまうかもしれないが、
禁煙なんて楽勝だ。
禁煙なんて朝飯前だ。
現に僕は過去に七回ほど成功している。
(七回失敗してるってことね)
そんな僕なのだが、実は今日、久々に煙草を吸ってしまった。
やむを得ない事情というやつが僕をそうさせた。
煙と一緒に罪悪感も夜空に消えていってくれれば良かったのだが、残念ながら不快感と共にそれは残ってしまった。
半年間の沈黙を破って再び煙草を咥えて火をつけた理由。
それは、たった一つ。
夫婦喧嘩をしたからだ。
正確に言うと嫁が一方的に怒っていて僕は訳も分からず無視をされ続けている、という状況が二日続いている。
原因がなんとなくでも予想できれば素直にそれを謝って、今後はしないように気を付けることも出来るのだが、
如何せん今回ばかりは本当に何が原因なのかわからない。
原因もわからないのに無闇に謝りたくない。
自分が嫁の立場なら「何が悪いかもわからないくせに安易に謝らないでよ」と思うだろう。
「ちょっとごめん、俺、なんかした?」
すぐにそう聞いてその場で解決すればよかったのに、僕は僕で意地の張りどころを間違えて
「けっ、てやんでぃ、ばーろー」
と、江戸っ子気取りでそのまま家を出て職場へ向かい、
「やってらんねーっすよ、うちの嫁が本当に」
と愚痴を言うも、長年主婦をやっている上司からは
「どうせあんたが悪いんだからさっさと謝りなさい」
と諭され、
「大体いつもこっちが謝って終わりなんだよな。今回もどうせそう落ち着くと思ってんなら大間違いだ、ちくしょう」
と、むしゃくしゃした気分のまま帰りにコンビニへ立ち寄り、気づけばレジのお姉さんに
「煙草の137番ください」
と無意識のうちに言っていた、という次第だ。
*
二本目の煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせながら思い返す。
勿論こういうことは初めてじゃない。
結婚をして六年の月日が経つ。
喧嘩なんて両手で数えきれないくらいしてきた。
感情の起伏に乏しい僕と違い、嫁は非常に感情豊かである。
すぐカッとなって怒るし、ちょっとした事で笑うし、なんてことない事で泣く。
それを見て「忙しい人だなぁ」と思いながら日々過ごしている。
ただ、僕のような無感動な人間からすれば「なんてことない事」でも、
彼女のような人からすれば「なんてことなくない事」なのだ。
きっと、今回怒ってるのもそれだ。
だから僕には心当たりがない。
嫁からすればそこまで怒るだけの理由がある。
そういうことなのだろう。
冷蔵庫の中の楽しみにしていたであろう杏仁豆腐を勝手に食ったときも。
お菓子ボックスのポテトチップスWコンソメ味を勝手に食ったときも。
そのお詫びにと思って買ってきたチョコレートも結局、僕が勝手に食ったときも。
飲み会に参加して泥酔した挙句、駅の外にあるベンチで朝方まで爆睡してから帰宅したときも。
「炬燵で寝ると体痛いし風邪ひくからちゃんと布団で寝てよ」と毎日のように言われ続けても言う事を聞かなかったときも。
僕がブラック企業に勤めて心身共にボロボロになっていたときに「あんたが会社に文句言えないなら私が直接乗り込む」と息巻いていたときも。
嫁には怒るだけの理由があった。
二本目の煙草を水の入った灰皿に放り込む。
口の中が気持ち悪い。
少しはすっきりした気持ちになるかと思ったのに、結果的には不快感しか残らなかった。
半年前までバリバリの喫煙者だったとは言え、「よくこんなものを好んで吸っていたな」と思う。
はぁ、と一息吐いた。
もう帰ろう。
帰って、お皿を洗って、洗濯物を取り入れて、部屋の掃除をして、お風呂のお湯を張って。
そして嫁が帰ってきたら理由を聞いて、そしてそれをちゃんと謝ろう。
きっと今回も嫁の言い分に僕自身が納得してしまうだろうから。ちょっと悔しいけど。
そういえば。
職場の上司がこんなことも言っていた。
「家庭ってのは奥さんが強いくらいの方が上手くいくものよ」
それは、どうだろう。
でも、まぁ、それもそうかもな。
ただ一つだけ言える確かなことは。
僕の“八度目の禁煙”という、前人未到の飽くなき挑戦は始まったばかりだという事だ。
(登山家みたいに言うな)