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【曲からショート】君がいたから

ざわめきの中で君の声を聞いた。

「あなたはあなたを貫けばいいよ」

あれはどんな口調だったかな。

投げ捨てるように?諭すように?

はっきり思い出せない。

でも思い出す君の顔は、いつもそう、笑っている。

僕に向かって。


苦労した就活ののち、やっと入れた会社だったけど僕は不満だった。

希望の部署に配属が叶わなかったからだ。

今となれば何青臭いことを言ってるんだと叱咤できるが、当時は周りの声なんか聞こえない。

「石の上にも三年」とりあえず3年は我慢して、それから自分探しの旅に出た。

貯金がほぼ尽きるまで国内・海外を半ば放浪し、その間自分ととことん向き合った。

彼女と出逢ったのは旅先だ。国内のどこかの離島。南の島。

一緒に過ごしたのはわずかな時間だったけど彼女の思い出は鮮烈だった。

島のバーで酔っ払っていた彼女はとにかく口が悪かった。

割と可愛らしい顔をしてるのにもったいない。

初対面の僕に話しかけ、ケンカまでふっかけてきた。

「自分探しなんて甘いのよ」と。

「旅先に転がってるわけないじゃない。自分は自分の中にしかいないわよ」

グラスを傾けて言った。

「とことん考えなさいね」

上から目線。

多少ムッとしたけれど彼女は正しい。

僕は僕自身でしかない。ここにいる今の僕。


あれから随分と時が経った。

カウンターの中でコポコポと音がしている。お湯が沸いたようだ。

落ち着くのを待ち、それからゆっくりとポットを傾ける。円を描く。ふんわりと香りが漂う。静かな時間だ。

店員は僕しかいない小さな店だが、コーヒー屋のマスターになった。

旅先で出逢ったコーヒーに魅せられ、専門学校で学び、有名店で修行した。

遠回りしたけど満たされている。

君がいたから、今の僕がいるんだ。

そう思っている。


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