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【手のひらの話】「土曜日部長と畑にて」
早朝にアラームが鳴る。
土曜日なのにおかしいな。設定した憶えがない。
朦朧とした頭を起こしてスマホを探した。枕元にない。床?カバンの中か。
昨夜は部の飲み会だった。この頭の重さ具合から察するに、かなり飲んだ様子。
憶えていないのだ、ほとんど。
やけに明るい居酒屋の照明と、皿から溢れた枝豆の殻を何となく記憶している。でもそれ以外は何も。
思い出したくない嫌なお酒だった可能性大、だけど。
結局ジャケットにしまわれていたスマホを取り出し、アラームを止めた。
何でこんな朝早く。
6時5分前。いつもの起床時刻よりも早い。
次の瞬間、ショートメール着信が表示された。誰?
「おはようございます。昨夜はちゃんと帰れましたか?大丈夫そうならお約束どおり駅改札に7時。 早見」
早見…。早見部長?
慌ててスマホを取り落とす。
何で部長からショートメールが。約束って何?待ちあわせしてるの?何で部長と。7時ってもう支度しないと!
わたわたと洗面所に向かいながら片手で経路検索する。ここからなら地下鉄で1本だ。
訳が分からないけど部長との約束をキャンセルするのはまずい。
記憶にない約束だが致し方ない。
数分後、私はマンションのドアを開けて出発した。
「部長、私昨日なんて言ったんですか?」
最寄り駅から徒歩15分。市民農園の入り口に私はいた。
「その靴じゃ汚れますよ。これ履いて」
ビニール袋から長靴を取り出して渡された。女性ものだ。
「妻から借りてきました」
混乱極まりない頭でそれに履き替える。履いてきたフラットシューズをビニール袋に入れた。
導かれるままに奥へ進む。
ここ数日の晴天のせいか、ニョキニョキ伸びる両側の何か。あ、茄子だ。こっちはミニトマト。
「部長、畑やってたんですね」
足を止めた部長は軍手をつけた手に鋏を持っている。
「無趣味の男の老後を心配して妻がね。この話、昨夜しましたよ」
記憶にございません。
上昇中の太陽が熱を帯びて照りつける。二日酔いには辛い。帽子持ってくれば良かった。
収穫作業をする部長の横で私は呆けていた。緑の青い香りが鼻をくすぐる。
トマトに茄子にキュウリ。たくさん穫れるんだな。
「保科さん」
不意に呼ばれた。
「食べ物には旬があります。美味しいし栄養もある」
何故かキュウリを渡された。もぎたてだ。「そこに水道あるから洗って」
言われるままにキュウリを洗った。
「人も同じ。何事にも時がある。だから今回の件は保科さんのタイミングが合わなかっただけです。次にいかせばいい」
指先に触れたキュウリのとげとげ。新鮮の証だった。
「部長、それを伝えるために私をここに?」胸が熱くなる。記憶のない自分を恨んだ。
「それもありますけどね。保科さん野菜嫌いって言うから。明らかにビタミン不足ですよ!仕事のストレス以前にちゃんと食べたほうがいい」
うへぇ。
さあ、と目で促されたのでキュウリを齧った。
何てみずみずしい。甘みさえ感じる。何もつけてないのに美味しい。
「美味しいでしょう?」
ガサガサとビニール袋を取り出し
「お土産に持って帰りなさい」
収穫した茄子やらトマトやらを詰め込む部長。
「あ、私ひとり暮らしなんでそんなにはいらない…」
「水分豊富ですから二日酔いにもいいですよ、是非!」
保科真由、早朝の農園に立っている。風変わりで部下思いの早見部長と一緒に。