【手のひらの話】「思いの淵へ連れてって 」
かちり、と音がして白が黒になった。
「 次は吉田さんの番ですよ」
目の前のご婦人に声をかける。
窓から射し込む午後の光が、吉田さんの白髪をきらめかせた。豊かな髪。オセロ盤を覗き込み、ためらう指先は透き通るような白さ。若い頃はさぞかし美しかったのだろう。
もちろん今も品の良いご婦人だが。
「わかんないわ… 」
指先に迷いが出てきた。
二人でオセロを始めてから15分は経つ。そろそろ限界かもしれない。私は笑顔で伝えた。
「 続きはまた今度やりましょう!」
すまなそうに微笑む吉田さんの手にそっと触れ、オセロを片付けることにした。
吉田さんの集中力は以前に比べると短くなっている。根詰める作業は避けたほうがいいのかもしれない。
そもそも、私は訓練しに来ているわけじゃない。単なる吉田さんの話し相手だ。
有料老人ホームに入居している彼女を定期的に訪ね、ひとときを過ごす。お話を聞かせていただく。
私は傾聴ボランティアの1人だった。
地域の公開講座を終えて、ボランティアデビューをしたのは約1年前。
自宅から歩ける距離にホームがあり、そこで傾聴の依頼があったのだった。
月2回、金曜日午後。女性希望。
初めはデイルームでお会いしていたが、最近は吉田さんの居室が多かった。
日当たりの良い部屋。
シンプルだけど彼女同様どことなく品があり、いつも清潔に保たれている。
ここか老人ホームだということを、私はしばし忘れるほどだ。
ソファーに深く腰掛ける吉田さんを見つめる。オセロを終えて、黙ってしまわれた。
ボランティアの時間は60分。
午後のおやつの時間には退去する決まりになっている。
無理に話しかけたりはしない。
吉田さんの見つめる方向に私も視線を向けて、じっとしていた。
待つのだ。
講座でそう教わった。
相手が言葉を紡ぎ出すのを待つ。
何も話さなくても良いと。
やがて時間が来てしまい、私はホームを後にした。
ある金曜日。
プライベートでショックな出来事があり、私はボランティアに行くかどうか迷っていた。
他人の話を聴くどころではない。むしろ誰かに気持ちをぶちまけたいほどの気分だったのだ。
でも。
「 最近元気がなくて。お食事も進みません」
お休みの連絡をしようとホームにかけた電話で、吉田さんの近況を知った。
行かなきゃ。
吉田さんの顔が浮かび、休もうという気持ちはどこかへ飛んでしまった。
私はホームに向かった。
数分後。
吉田さんの居室で向かい合う。やはり元気がないようで挨拶をしても反応がない。肌艶が悪いようにも見えてしまう。
「 …。」
窓辺には陽だまりができていた。光が遊ぶ。
ここはとても静か。
いつもは心地よい沈黙が今日は辛い。
光を眺めていたら視界がぼやけてきた。
こんなにきれいなのに…私の気持ちはぐちゃぐちゃで…何やってるんだろう私…。
気がついたら涙が溢れていた。
声は出せない。必死にこらえて顔を手で覆った。けれども隙間から嗚咽が漏れてしまう。
予想外の涙は制御が効かない。
そんなとき。
「 どうしたの?」
白い手が、私の肩に触れた。
「 え?」
吉田さんの声だった。顔を覆っていた手を外すと心配そうに私を見ている。
「 どうしたの?何があったの?」
肩をさすりながら真っ直ぐに私を見ていた。
「 ばばに話してごらん」
ああ、そうか。
吉田さんにはお孫さんがいると耳にしたことがあった。きっと「 ばば」と呼ばれていたのだろう。
「 ママに怒られた?それともお友達とケンカしたの?」
触れられた部分が暖かい。
私を、お孫さんだと思っているんだ…。
「 大丈夫。ばばがいるからね」
背中をさすってくれる。優しく語りかけながら。
「 悲しくなっちゃったのね…大丈夫よ、大丈夫」
何度も繰り返される「 大丈夫」。それは魔法の言葉みたいに私に染み込んだ。吉田さんの手のひらの体温と一緒に。
「 ばばがお歌を歌ってあげるね」
かぼそい声のメロディが流れた。何の歌かは知らない。どこか懐かしい響きだった。
「 ありがとう…ございます」
どうしよう、止まらない。
吉田さんに導かれるようにして私は泣き続けた。たぶん声も漏れていた。
「 どうかされましたかっ?」
聞きつけたスタッフが慌てて部屋に飛び込んで来たくらいだったから。
どうしようもない気持ちが訪れたとき。
ただ、そばにいてくれるだけで救われることがある。
例え距離があったとしても、気持ちが寄り添ってくれることが力になる。
吉田さんは私を小さなお孫さんと思って慰めてくれたんだろうけど。
たしかに、私の心に寄り添ってくれた。それは本当だ。
スタッフは苦笑いしていたけど、2週間後の金曜日もまた来てくださいと言ってくれた。
今度は私が吉田さんの思いを聴けるように。
笑顔で会いに行こう。
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