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【手のひらの話(少し長め)】「追憶の夜に」〜前編〜
火照った頬が心地よい。
ここは程良く冷房が効いていて、静かだ。
ジャズか何かのピアノの音が低く流れているが、全然邪魔にならない。カウンターだけの店。
他に客はなく、目の前のマスターはグラスの手入れに余念がない。
「 おまたせ」
はっとした。連れがいたのか。
正直記憶がない。一人で飲んでいたのかと思っていた。
女が横に座る。衣擦れの音が少し。髪は顎ラインのボブで、紺色のノースリーブワンピースを着ている。髪が顔にかかって曖昧だが、綺麗な横顔に見えた。
「どうしたの変な顔して 」
こちらを覗き込むようにして言った。正面の顔が見えた。やっぱり綺麗だ。そして好みの顔だった。
「何にいたしましょう 」
マスターが女に声をかける。宙を見上げて考え込む仕草をした後「モスコミュールを 」女はそう言った。
「飲みすぎちゃった? 」
俺の前にはグラスがある。空の。
ここは2軒目…のような気がする。こんな落ち着いた店、1軒目には選ばないだろう。
「 ごめん。飲みすぎたみたいで記憶が飛んでるんだ」
正直に言った。女と俺は知り合いらしいが、よく分からない。少なくとも彼女じゃないだろう。
「 渡瀬くんはベロベロになってタクシーで強制送還されてたね」
渡瀬。ああそうか。今夜は高校の同窓会だった。卒業して15年ぶりの。
「 同じくらい飲んでたじゃない」
ということは同窓生だ。誰だ?グラスを傾けながらこちらを見る。
「私のこと、分からないって顔してるね」
ボブの髪がサラリと揺れた。
「ごめん…何しろ15年も経ってると女も変わるよな 」
いつの間にかマスターから差し出されたグラスには冷たい水が入っていた。俺の酩酊ぶりを見かねたのかもしれない。
「確かにね 」
ことり、とグラスを置く。モスコミュールは消えていた。
「 誰も私のこと分からなかったな」
その声に寂しさが混じっていた。確かに会場のホテルのフロアは広かった。俺たちの学年は1クラス40人の7クラスで280人。今夜の参加者が総勢何人いたのか分からないが、100人近くが集まって歓談していたら誰が何だか分からなくなるのも当然だろう。
「 ごめん。失礼を承知で聞くよ。ええと…」名前は?わざと最後は言わなかった。
「 倉木だよ。やっぱり皆井くんも分からなかったんだね」
残念、と肩をすくめるジェスチャーをした。ノースリーブから伸びる白い肩。控えめに笑う顔。おぼろげな記憶がよみがえる。
倉木。斜め前に座っていた彼女だ。几帳面にとられたノートを、試験前に何度か写させてもらった。
「私は目立たなかったからな」
空のグラスをぼんやりと眺めている。
「俺だってそんなに目立ってたわけじゃないと思うけど」
言い訳のように呟く。倉木は向き直った。「印象に残るの、皆井くんは。だから忘れられない」
そう言い放つと少しうつむいた。心なしか頬が染まっている。
アルコールが冷たい水で中和されたせいか、頭がすっきりしてきた感じがある。とりあえず、氷水をもう一杯マスターに頼んだ。
倉木はもう飲まないのだろうか。
(後編に続く)