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【手のひらの話(少し長め)】「追憶の夜に」〜後編〜
「もう一杯だけ飲んじゃおうかな」
俺を見透かしたように倉木は言った。
「結構飲める方?」
かぶりを振りながら言う。
「お酒を飲んだのは今夜が初めて」
「ええ?大丈夫か?」
涼しい顔で倉木はメニューを広げた。
「だから種類を知らないの。カクテルなら甘くて飲みやすいかなと思って」
本当か。33になるまで一滴も飲まなかったのか。大学や職場の飲み会だってあるだろうに何で今まで。
薄暗いカウンターに疑問符を盛大に飛ばしながら俺は氷水をあおった。
「じゃあソルティドッグ」
にっこりとマスターに笑いかける。初めての酒はまったく影響していないらしい。背筋を伸ばしてスツールに腰掛けている。その姿がかつての記憶を呼び覚ました。
「倉木は姿勢がいいんだな」
新たなグラスに唇をつけながら俺を見た。
「思い出した?」
笑顔になる。
「高校時代にも皆井くん、そう言ったよ」
おんなじ言い方だった。倉木は続きを飲んだ。
斜め前のぴんと伸びた背中。だからあんな几帳面なノートをとれるのだろう。俺はそう思っていた。
倉木の制服の後ろ姿を思い出せるのに、目の前に誰が座っていたか思い出せない。
「うちが厳しくてね。小さな頃から姿勢は注意されてた」
後ろ姿の印象が強いけど、今夜の倉木には高校時代の面影がちゃんと残っている。
はじめは誰だか分からなかったくせに。いよいよ酔いが醒めたのか、記憶が鮮明になってきた。
「皆井くんは今何してるの?」
倉木が尋ねた。不意をつかれてしどろもどろになる。
「え?ああ…今何してるかって?」
じっと見つめられて瞬きを忘れそうだ。
「1度転職して…今は小さな出版社にいるんだ」
倉木が目をぱちくりした。
「やっぱり!皆井くんは本に関係する仕事をしてると思ったんだ」
何だか嬉しそうだ。
「何でそれ…」
「本、好きだったでしょう?」
人前では読まなかったみたいだけど、と続ける。隠れ文学青年。
当時は運動部に所属していたし、読書が趣味なんて暗いやつと思っていた。だから隠していた。
「私、図書委員だったから」
貸出カードに並ぶ俺の名前を記憶していたらしい。倉木から図書室の本を借りた覚えはないから本の整理か何かで目にしたんだろう。
「好きなことを仕事にできるっていいよね」
頬杖をつきながら楽しそうに言った。
「倉木は?」
俺の知らない15年をどうしていたのか興味がわいた。
「気になる?」
潤んだ瞳が俺を捉える。アルコールは抜けたはずなのに脈が早いのは気のせいか。
「大したことはしてないの。皆井くんみたいに楽しい報告ができれば良かったな」
視線を外して呟いた。言いたくないのかな…何となく察して俺もそれ以上は聞かなかった。
「皆井くん、お酒は?」
「倉木は?」
ソルティドッグのグラスは空いていた。 「やめとく。帰らないといけないから」
それから会計を済ませて二人で外に出た。涼しかった店内とはうらはらに、ムワッとした夜が漂っていた。梅雨が明けて、本格的な暑さがやって来る。
「帰りは電車…」「私ね」
互いの声が重なった。俺の問いを遮るように倉木は続けた。
「皆井くんにもう一度会えて良かった」
恥ずかしそうに笑い、その後真顔になる。
「私皆井くんのことが好きだったの」
たなびくボブの髪とワンピースの裾。
「ありがとう…」
自分はどうだったろうか。
「こんなキレイな人に告白されるなんて」
照れてしまう。夜空を見上げるが星は見えない。
「私が?」
「うん。キレイになってて分からなかった」
視線を戻すと倉木は嬉しそうに笑っている。
「そう言われるの夢だったんだ。もう1度言ってくれない?」
戸惑いもあったが、少しだけ残したアルコールが俺を大胆にしたんだと思う。
「キレイになったな、倉木」
最後の記憶は笑った倉木だ。
そこで、途切れている。
蒸し暑いワンルームの天井が目に映った。もう朝か。ぼんやりした頭で昨夜の記憶をたぐり寄せる。
飲みすぎたせいか記憶があちこち抜け落ちている。同窓会のホテル、集まった面々、きらびやかな照明、いい年してバカ騒ぎ…。
あれ。
何か忘れてないか。
ベッドから抜け出て窓を開ける。気温は高いけど風がある。はためくカーテンを寄せて束ねた。
あれ。
はためくボブの髪。
次の瞬間、強い風が吹いて立てかけてあった本の類がドミノ倒しになった。
高校の卒業アルバムが1番上に重なっていた。普段は天袋に閉まってあるはずだ。同窓会前に見返したのだろうか。
何気なくページを開く。3年7組。俺のいたクラス。15年前の俺たち。
出席番号は五十音順だ。前から指でなぞっていく。昨日会えたヤツと会えなかったヤツと。
ふと指が止まった。
倉木。
ひとりだけ背景色が違う。何だこれ、別の場所で撮ったみたいな。
制服の倉木はふんわりと笑っていた。
あれ。
唐突に思い出した。
倉木が一緒に卒業できなかったことを。
受験を控えた俺たちを気遣い、親御さんから事実を告げられたのは卒業式当日だったことを。
高3の秋頃から闘病していた倉木は、卒業式を迎えられなかった…。
息が止まるようだった。
昨夜のあれは夢だったのか。
バーの雰囲気も、倉木の台詞もちゃんと憶えている。なのに。
本当なら倉木はいるはずがないんだ。
不思議と恐怖心はなかった。大人になった倉木はキレイで、俺との再会を喜んでくれた。楽しい夜だったじゃないか。
アルバムの倉木がにじむ。揺らめいている。
どうして今頃気づくんだよ。
ちゃんと伝えれば良かった。
「ホントは俺も好きだったんだよ…」
次々とあふれる想い。やがて倉木はにじんで見えなくなった。 (完)