こうしてほしいぞ、『笑って人類!』
【「公募ガイド」と遜色と】
「公募ガイド」という雑誌の2023年夏号に、「本気で直木賞狙ってます 太田光」なんて記事が載っていました。
一読して驚いたので、まずはその引用から。
新作長編『笑って人類!』と直木賞についての記事です。ライターがまとめて文字にしたものではあっても、「インタビュー」と紹介されている写真付きの記事なので、ご本人の発言のはずです。
漫才師としてお笑いタレントとして、はしゃぎ回る芸風の太田さんが、ウケ狙いで自画自賛してみせたのかもしれません。それならそれで面白く読んでおけばいいんですが……読書家で知られる作家・太田光は――本当に「『笑って人類!』は歴代直木賞受賞作と比べて遜色ない!」なんて思ってるんでしょうか。それならやはり、ツッコミを入れずにおれんよなーと思ってこの文章を書いています。
僕は直木賞の歴代受賞作を読んでるわけじゃありませんが、それでも断言できます。
「遜色はある! ありまくる! 候補にもならなかったのは、きっとそのせいだよ!」
ではどういうところが「遜色」にあたるのか。それを知りたい方は、前にnoteで公開した「どうすりゃいいのか、『笑って人類!』」( https://note.com/kurobey286/n/nf067d6ad9211 )という文章を読んでいただければと思います。作中に満載の凡ミスからいくつか列挙しておきましたので。
なにしろ、プロの作家とか一流出版社の出版物とかであったら普通はないような初歩的凡ミスが結構あるんです。普通なら、推敲や校正の段階で気づかれ指摘され、修正されていておかしくないことですから、直木賞の歴代受賞作となればそうそう見つかるもんじゃありません。それが『笑って人類!』には満載されていたんです。そんな凡ミスの数々を――なるべく論証的に、なるべく穏やかな言い方になるように気をつけて指摘してみました。
これが文学賞の下読みスタッフであれば、そんな気遣いなどいりません。ただ選考段階で減点して落とすだけです。そして、小説業界の大きな賞に携わる人ともなれば、仕事として校正作業を行う人、その知識を持っている人ばかりです。そんな人が『笑って人類!』を選んじゃったら自らの職能の低さを露呈することになります。それは感情とか出版業界への貢献度ではなく、単純に技術的・論理的なことなんですが――「公募ガイド」の記事ではそうした指摘が一切ないのが残念でした。
どうも太田さんは、そういう修辞上の配慮とか校正的必然とかへの意識が低いようです。――そこで今回は、もうちょっと端的に書いてみます。「今までの受賞作」ではなく、「太田光さんの好きな作家」を引き合いに出して「遜色」を表現しますと、こんなツッコミが浮かんできます。
「情景描写の得意な三島由紀夫なら、そんなになんでもかんでも『まるで星空のようだった』みたいに書かないよ!」
「心理描写の得意な太宰治なら、自分が人間かAIかで揺れる登場人物への言及をそんなにあっさり片付けないよ!」
「脚本も小説も名手だった向田邦子なら、説明抜きで視点が飛びまくって読者を混乱させるような文章は書かないよ!」
……もちろん、こういうのは単なる仮説だし、主観的な判断です。「俺には遜色ないと思える!」と否定されたらそれまで。僕の方が「過去の大作家の威を借りて批判している」とか「自分のことは棚に上げてる」などと批判され返されたら、それもそうだねーと引き下がりたいところです。
ですが、僕がこんな風に『笑って人類!』について挑発的に書くのは、ファンとして作家・太田光の本当の傑作を読みたいからです。そのためには今ある「遜色」、わりと簡単に直せる欠点から目を背けちゃいけないと思うんです。――まあ、ボケがあったらツッコミ入れたい、っていう単純な衝動もあるんですけども。
それからもう一つ。太田光の著書を見比べながら『笑って人類!』について考えると、僕が以前から気にしている問題について考察を深められそうだという期待もあります。それを簡単にいうなら「物語」と「描写」の問題なんですが、そのあたりは書き進めながらおいおい触れていこうと思います。
【『笑って人類!』と忖度と】
面白いことに、「公募ガイド」の記事が取材されたのは2023年5月下旬、活字になって刊行されたのは7月7日のことでした。そしてこの時期の直木賞の候補作発表は6月下旬、受賞作発表は7月下旬だそうですから――結果的には、「予選落ち作家、『本気で狙ってます』宣言!」っていう妙な構造になっちゃってました。思わず「何じゃそりゃ!」とツッコミを入れたのは僕だけじゃないと思います。
まあ取材から雑誌流通までのタイムラグのせいかもしれないし、そのズレ自体が太田さん一流のギャグと思えばメディアを巻き込んだコントみたいで楽しいわけですが……それにしても、『笑って人類!』という作品の抱えた問題点が何も指摘されていない記事内容には首を傾げました。
「公募ガイド」というのは文学賞をはじめ各種の公募や賞を狙う人たちに向けた情報誌です。直木賞に絡めて景気のいいことを書いた方が耳目も集めるでしょうし、太田光という人気者の名を冠するだけで売れ行きもアップしそうです。忙しい中で取材の時間を割いてもらったら、悪くは書きづらいって事情だってあったかもしれません。
ですが、「受賞に向けてこういう点に気をつけよう!」みたいな記事も載っている雑誌ですし、投稿活動をしている側からすると、そういうアドバイスが役立つことも多いんです。僕もかつてお世話になった身ですので、「『笑って人類!』のダメなところを列挙したら読者の参考になるのに!」と考えずにはいられませんでした。書評家の豊崎由美さんの言葉を借りれば、「新人賞もとれないレベル」の凡ミスが散見されるので、そこを指摘するだけでも新人賞を狙う人には実践的に役立つわけです。
もちろん、修辞上のミスがあったとしても、『笑って人類!』は魅力に満ちた長編小説です。ネットを見回せば、絶賛している読者も枚挙にいとまがありません。僕も面白く読みましたし、好きか嫌いかで言ったら好きなんです。そんならわざわざ批判することもなかろう……と、自分でも思ってますが。
それでも、「賞は他者の評価だからわかんないけど」という以前の問題として、「ここまで修辞的な落ち度が満載だと、ごく常識的に考えて無理!」と指摘したくなります。既に発表直後から、そういう声を上げている読者だって結構いました。書評サイトとかAmazonレビューとかTwitterとかを眺めてみれば「文章ヘタ過ぎ」とか「比喩が陳腐」みたいな感想はすぐに出てきます。中には「ファンなので発売直後に買ったが、読んでみたら所詮ファングッズだった。すぐに古本屋に売り飛ばした」なんて猛者もいました。――「ファングッズ」ってのは、ファンしか買わない代物だとか、安物に高い値段をつけてライブなどの黒字化を計るためのグッズとか、いささか皮肉な含みを持った言い回しです。
ただしこういう感想はいわゆる印象批評が多く、具体的な方法論への言及が少ないのが惜しいところです。そこで僕自身は、読み始めたのはちょっと遅めの5月頃でしたが(村上春樹の新刊を優先させたので♪)、読みながらストレスを感じたところをTwitter上に書き込んでおりました。いくつもいくつもツイートしながら、候補発表前から無理だろうなーと確信していたものです。
ですがどういうわけだか、そうした悪評はあまり表に出ません。爆笑問題の出ている番組では各種芸能人とか文化人枠で出演している作家とかが「分厚いけどすごく面白い」などと漠然とした褒め言葉を並べてばかりで、太田さんもその言葉に喜んでみせては「これは直木賞!」みたいな大言壮語に繋げて笑いをとっていました。なんだか、テレビやラジオのようなメディア業界では一番大切らしい「空気を読む」って不文律の中、「太田光の新作というからには褒めなきゃならない」って決まりごとでもあるみたいでした。
まあ、新刊本の宣伝のためには「いかに面白いか」みたいな点をアピールするものなんでしょうし、太田光の話術があれば「お約束的に褒められて悦に入る」なんて展開で面白おかしく成立します。テレビやラジオの番組内ならそれでもいいんでしょうが――僕はどうも首を傾げておりました。
ちょうど、新語として「カエル化現象」なんて言葉が注目されていた頃でした。王さまが魔法でカエルにされているというグリム童話、「蛙の王さま」になぞらえて、恋愛相手にいきなり幻滅してしまうことを指す言葉です。その語法にのっとると、メディア上での「『笑って人類!』への高評価に喜ぶ太田光」って展開に対しては、グリム童話よりもむしろアンデルセン童話の「裸の王様」が似合うようでした。
説明するまでもない有名なお話ですが――ペテン師が「バカには見えない服」というのを王様に献上、バカと思われたくない王様はそんな服など見えないとは言えず、その服を着た気になって裸で街に出る、大人はみんなバカと思われたくないので立派な服だと褒めそやすが、正直な子供が「王様は裸だ」と指摘する――なんて寓話です。
なにしろ寓話ですからいろんな受け取り方ができそうですが、僕はこの話の、「ナイスツッコミな子供」に憧れます。「バカだと思われたくなくてお追従いってる大人」が多い世の中だったら、時々ツッコミを入れなきゃいけないとも思うんです。爆笑問題の漫才が面白い理由の一つも、そういう世の中へのツッコミがあるからだと思うんですよね。
ところが、そんな爆笑問題の頭脳・太田光が、『笑って人類!』に関しては子供側から王様側に回っちゃったように見えました。
そうです。僕には、最近の太田光をとりまく状況が、裸の王様のパレードに思えるんです。ファンの絶賛やメディア関係者の忖度の褒め言葉ばかりが大きく響いてるせいです。ラジオ番組で太田さんがぽろっと「僕なんかの三文小説が……」と言ってるのも聞いたことはありますが、そういう言葉がかき消されるほどお追従の音量が大きい気がします。発売直後のプロモーション期間を過ぎても、候補作に入らなくても「目指せ直木賞!」って声が響いてる現状に、やっぱり裸の王様のパレードを連想します。
楽しい番組にするため、あるいは爆笑問題の番組に呼んでもらうため、逆に売れっ子の爆笑問題にゲスト出演してもらうため――いろんな忖度の元に、批判的な言葉を呑み込んでいる人が多いようです。嘘をついてるわけではなさそうだけど、意図的に悪い言葉は避けているようだし、さらにそれがスタッフに編集されたり太田さんに強調されたりしているせいで、まるで欠点など何一つない名作みたいに語られています。もちろん大ファンだったらそう思うこともありましょうが、中には「分厚い本をしっかり読むのは面倒だから適当に褒めときゃいいや」みたいな雰囲気の人もいて、それはそれで失礼じゃないかって気もします。
それで今回、再び『笑って人類!』批判を書いとこうって気になりました。『笑って人類!』を好きな人、今まさに楽しんでいる人に水を差すつもりは毛頭ありませんので、ご興味ある方だけ何かの参考にでもしていただければ幸いです。むしろこの文章を読んで、「そんな小説なら読んでみるか!」なんて思ってくれる人がいたら嬉しいかぎり。
【王か道化か、後継者募集】
断っておきますと、「勘違いして自画自賛してる太田光は裸の王様だ!」などと言いたいわけではないです。『笑って人類!』でも指摘されていたように、そうやって誰かを見下す言説はネットに溢れてますので、今さらわざわざ書くまでもないでしょう。僕が気になるのは、「裸は裸だとしても、狙っているのかいないのか」ってことです。
だいたい、自作の小説を宣伝して「こんなところが面白いよ」なんて語るのは恥ずかしいものです。ですが人気者としては、方々で自作小説について語らなければならない立場であることでしょう。だったらいっそ、自画自賛ぶりを強調して、はしゃいでおどけてみせる――それもまた、太田光が日本のお笑い文化を評していう「照れの表現」だと思えます。そんな照れの表現の暴走が、「『直木賞だ!』と騒いでみせる」って道化の姿なんじゃないでしょうか。
「狙って道化になってみせる」といえば思い浮かぶのは太宰治作品です。その魅力について、ほかならぬ太田光が何度となく熱弁しています。まして彼は作家である以前にお笑い芸人ですから、道化を狙った行動だって本芸ともいえそうです。彼を批判する際、「マジなのかボケなのか」って視点は忘れちゃいけない気がします。
小説の書き方について少々無頓着なところがある太田さんですが、僕は彼の物語作家としての力量を尊敬していますし、芸人としての力量ともなれば全容を推し量ることさえできません。アンデルセン童話の「裸の王様」になぞらえたいのは太田光ではなく、「太田光をとりまくメディア状況」です。つまり、「周囲が寄ってたかって『裸の王様のパレード』という状況を用意するもんだから、太田光はあえてそのパレードで裸になっているんじゃないか」ってことです。
ラジオでぽろりと漏らした「三文小説」という言葉は、作家・太田光が「自らが裸であること」を意識している証とも受け取れます。それでも芸人として、周囲から拍手喝采を浴びればおどけてはしゃぎ回る――最近の太田さんの立ち居振る舞いには、そんな道化の哀愁さえ漂っているように感じます。考えすぎかもしれませんが、そう考えるとなんとも文学的で、現代の太宰治みたいに見えてきませんか?
つい後ろから忍び寄り、玉川上水に放り込んでやりたくなる……なんてのは悪趣味な冗談ですね。でも、「本気で狙ってます」っていう太田光のパレードには、「マジなのかボケなのか」って問題も絡んで立派な文学性が潜んでいると思えてなりません。
2023年3月発売の『笑って人類!』ですが、春頃は発売直後のプロモーション活動が賑やかでした。春が終わる頃にはいったん鎮まったように見えましたが、6月頃から太田さん単体のメディア出演が増えた気がします。もともとテレビで見ない日はないような売れっ子ですが、ラジオやネット配信などでも『笑って人類!』に絡めていろいろ喋る番組が多いようです。
まあ本人が直木賞だ直木賞だと騒いでいたので、メディア側がそれに反応したのかもしれません。前述のように、直木賞は6月に候補発表、7月に受賞作発表ってスケジュールです。この時期に太田さんの声を拾っておけば旬の話題として耳目を集めやすい、という計算もあったことでしょう。それが結果的に、「予選落ちの後で『狙ってます!』と豪語!」っていうコント構造になったわけです。
その構造に対して、太田さんは自覚的であったのか。――真面目に質問しても真面目な答えは返ってこなそうですが、その関連で興味深かったのは、書評家・豊崎由美さんによる『笑って人類!』評と、それを読んだ太田さんのご機嫌トークでした。
その書評はネット上で公開されていますので、まずはこちらをご覧ください。
「【今月のマストリードな1冊】ビューティフル・ドリーマー太田光の心の声を綴った傑作『笑って人類!』」
( https://dime.jp/genre/1611900/ )
それへの太田さんの反応――というか大喜びの様子は、爆笑問題のラジオ番組「爆笑問題カーボーイ」で語られました。
その音源や文字起こしもネット上に存在しているようですが、違法アップロードとか著作権侵害とかの可能性もあるのでリンクは張らずにおきます。ご興味ある方は自己責任でお調べください。たしか、「由美ちゃんありがとね!」に始まり、数十分にわたってその話をしていたような覚えがあります。
それを聞いているかぎりは、褒められて大はしゃぎというのは素直な気持ちのようでした。ちょうど直木賞の候補の発表時期だったこともあり、賞なんかより彼女に認められたことが嬉しいと語っている言葉も正直なものだったと思います。
しかし……僕個人は、これまでの経緯も踏まえ、豊崎さん一流の毒舌でもって『笑って人類!』をメッタ斬りにしてくれることを期待していました。その思いがあったもんで、いささか皮肉なことを考えました。
「プロのライターともなれば、自分の評価とは別に、毀誉褒貶のバランスなんて仕事に合わせていくらでも変えられる。たとえ嫌っていたって、おすすめの一冊を紹介する仕事なら褒め言葉だけ並べて書くことだってできるはず。今回の『笑って人類!』評の場合、むしろ個人的思いが託されているのは、最後の後継者募集ではなかろうか。人間、どんなに年をとろうが老眼だろうが、本当に読みたい本ならば読む。目に問題があれば耳で聞いたって、他の感覚を使ったっていい世の中だし、実際そうしている人もたくさんいるのだから」
これは憶測にすぎませんが――「それでも後継者募集というのは、単にもう太田光に関わりたくないんじゃないか。そりゃあ、あんなにしつこく罵ったり貶めたり、不穏当な絡み方をしたんだもんなー」なんてなことまで思います。
豊崎由美さんは「太田光が小説家として進化していることは確かです」と表現しましたが、僕はむしろ作家としての退化があるような気さえしています。なにしろ、面白くて読みやすかった『日本原論』刊行から26年後、『笑って人類!』では面白いけど読みづらい、あるいは読んでも意味が通じないところまで結構ありますから。
もちろん「進化か退化か」なんてのは着眼点や価値観の違い、表現方法の違いの問題です。少なくとも作文とか修辞法のテストであったら減点があるのは間違いないものの、それで小説家や作家を評価していいのかって問題はありますが――今はやはり、警鐘を鳴らしておくべき時でしょう。
かつて豊崎さんからけちょんけちょんに批判された時には猛反発、しつこく絡んで不穏当にネタにした太田さんですが――さて、僕のこの警鐘は届くのでしょうか。別にしつこく絡まれたいわけでもないんですけど、豊崎さんの書評の結びに「『太田光担当』を引き継いでくれる御仁はおりますまいか」とあるのは、こういう批判の必要性についての示唆じゃああるまいか、と勝手に解釈しておきます。
で、太田さんは「由美ちゃんに褒められた!」と大はしゃぎで、自分のラジオ番組で裸の王様のパレードを繰り広げてくれたわけですが。
7月14日に公開された、放送作家の植竹公和さんのインターネットラジオでは、太田さんをゲストに迎えて小説談義・創作談義が繰り広げられていました。
「歌う放送作家 植竹公和のアカシック・ラジオ
爆笑問題 太田光さん登場!ヴォネガット、太宰、宮沢賢治・・・小説『笑って人類!』を作り出した読書遍歴を探る!!」
( https://audee.jp/voice/show/64713 )
二人は古い付き合いらしく、息の合った調子で突っ込んだ創作論が繰り広げられていましたが、その後半に気になる発言がありました。芥川賞・直木賞の話題からこんな会話があったんです。
この発言を聞いて、僕はちょっとほっとしました。やっぱり、太田光は本気で裸の王様なわけじゃなく、裸の王様を演じてみせる道化なんだよなと思えたんです。
そして、太田さんのこの発言、こういう姿勢こそが、かつて豊崎さんが否定していた「太田光の伸びしろ」なんだろうなと思えてなりません。
【昔話理論と『日本原論』】
さて、ここでがらっと話題を変えます。
ちょっと長くなりますが、大丈夫。『笑って人類!』ほど長かぁないです。
グリムやアンデルセンの名前を出したついでに、昔話の話題から描写と物語について考えたいんです。
20世紀のスイスの文芸学者、マックス・リュティの『ヨーロッパの昔話 ―その形式と本質』(小澤俊夫訳 岩波文庫)という本に、こんな言葉があります。
作家・太田光を考えるのに、この昔話理論を引き合いに出してみましょう。
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もともと学術論文だしドイツ語からの翻訳だしで少々難しい文章ですが、簡単に言うと「昔話は描写をしない」ってことです。
この『ヨーロッパの昔話』を翻訳したのは日本における昔話研究の第一人者である小澤俊夫ですが、もっと一般向けの本の中で、分かりやすく噛み砕いて説明しています。
もちろんこれは昔話についての理論です。昔話理論なんですが――「昔話」を「物語」と読み替えてみましょう。そこから物語と描写の関係についての示唆を得られます。
リュティ理論の「するどい輪郭」というのは文芸を絵や図形に喩えた言い方ですが、この小澤理論でいうと「話のすじの進行」にあたります。そして「描写」というのは「森や山がどんな様子であったか」ってことですね。
さらに分かりやすくするなら、「森や山の様子なんてどーでもいいから、話を先に進めてよ!」なんてセリフにしてみましょう。昔話にかぎらず、小説とか映画とかドラマとか、日常的な会話の中でもそういう思いを抱くことってありますよね。話の先を知りたくてうずうずしている時、悠長に描写などされていてはじれったい、って感覚です。
バラエティー番組などでは、しつこくボケ倒す太田さんに他の出演者や相方の田中さんがツッコむ、なんて光景がお馴染みです。この場合の「ボケ」と「描写」とは別物ですが、「早く話を進めてよ!」と言いたくなる側の心理は一緒ですよね。
はい、そんなわけで。
僕は太田光の『笑って人類!』がじれったかったんです。冒頭の1ページ目から、このリュティ・小澤理論を思い出したんです。
この長編小説は、ニュース番組のオープニング映像や、ニュース中継の映像の描写から始まります。その描写を読んだって特に面白くはないし、あんまり上手な描写ともいえません。話のすじがちっとも動き出さないこともあり、ただ読みづらさだけを感じちゃいました。
こう言っちゃ何ですが、もしも作者が太田光じゃなかったら、僕は『笑って人類!』という本の1ページ目で読むのをやめたと思います。わりに飽きっぽい性格で本を読みさすことへの躊躇もないので、もし他の作者の本だったら躊躇なく放り出していたことでしょう。上記の引用文をもじって言うなら――「具体的な描写のせいで、その描写自体に時間がかかってしまい、話のすじの進行は止まっています。物語にとってそれは致命傷なのです。なぜなら、読者が飽きてしまうからです」ってことですね。
でも僕は読むのをやめませんでした。Twitterでぶつくさ文句を呟きながら、とにかく最後まで読み切りました。それは、たとえ長編小説を書くのは下手でも、物語作家としての太田光を信頼していたからです。必ず面白くなるはずだと信じていたから読み続けることができました。
そんな信頼感を抱いているのは、やはり最初に手に取った『爆笑問題の日本原論』が抜群に面白かったからでしょう。――そして、この『日本原論』シリーズには、マックス・リュティや小澤俊夫の昔話理論がぴったりと当てはまるんです。爆笑問題がマックス・リュティを踏まえて漫才を作っていたとも思えないし、考えてみると不思議なことですよね。
そのあたり、もうちょっと考察してみます。
【描写と物語】
実はこの3~4年ばかり、僕は昔ばなし大学で学んでいました。昔話という口承文芸の研究における世界的権威である小澤俊夫先生に学び、昔話の文芸理論を踏まえて文化遺産としての昔話を伝承していこう――という市民大学です。
そして昔話だって小説だって物語の一ジャンルです。昔話にまつわる文芸理論の多くは小説にも応用することができます。そもそも小説ってジャンルが個人個人の資質によるところが大きいせいか、信頼するに足る文芸理論というのがあまり見当たらないなーと思っていたこともあり、僕は昔話を通して物語というものを学ぼうと思ったのでした。
学んだ内容は多岐に渡るのでとても一口では語れませんが、そのエッセンスを紹介するのにぴったりなのが、前述の『昔ばなし大学ハンドブック』(小澤俊夫著、読書サポート刊)という本です。この本では昔ばなし大学の基礎コースのカリキュラムを踏まえながら昔話の文芸理論についても紹介されています。
先ほど抜粋して引用したのは「4 昔話の語り口には法則がある」という章の「昔話は描写をしない」という単元の一節です。この章では、法則の実例として「くりとばあさん」という昔話が示されていまして、このお話がなかなか面白いんです。「むかし、ある村に、ひとりの旅の僧がやってきました」って発端句から始まり、不思議な予言と大きな厄災に繋がっていく物語なんですが――この「くりとばあさん」という昔話と『笑って人類!』の冒頭の間には奇妙な類似があります。どちらも「ひどい厄災の後、たった一人が生き残る」という展開なんですね。
まあ長くなるのでこまかく描写するわけにもいきませんが、ご興味ある方は読み比べてみてください。ここで着目すべきは、昔話のような「語られて耳で聞く物語」と、小説のような「書かれて目で読む物語」の違いです。爆笑問題ファン・太田光ファンに向けて分かりやすくいうなら、『日本原論』と『笑って人類!』との違いともいえると思います。
『爆笑問題の日本原論』は一冊の本として「書かれて目で読む物語」でもありますが、漫才形式の会話体で書かれているおかげで、「語られて耳で聞く物語」でもあります。漫才形式のおかげで口承文芸の語法に則り、「昔話は描写をしない」という理論を実践しているんですね。同様に、『昔ばなし大学ハンドブック』で語られる昔話の語り口の法則はほとんど『日本原論』にもあてはまるんです。
一方の、『笑って人類!』ですが……「くりとばあさん」の後、小澤先生が「目で読む文学」について言及しているので、それを引用してみます。こちらの文章は『笑って人類!』にあてはまるのが面白いところです。
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ここでいう「目で読む文学として認めてもらう」ことの実例として「直木賞をとる」ってのが連想されます。文学として認めてもらいたい太田光は、『笑って人類!』において「そういう描写」を目指したようです。『日本原論』はもちろん、小説という形式では同じの『マボロシの鳥』や『文明の子』に比べ、『笑って人類!』では描写量が各段に増えています。なのに比喩が紋切り型、言葉選びは時として的外れ、ってのが問題なわけですが。
特に冒頭、読者がどんな物語か把握する前から、これでもかというほどの情景描写が出てきます。しかし問題なのは――それが「作家の表現力」として認めらるようなものじゃなかった、ってところです。
前稿の「どうすりゃいいのか、『笑って人類!』」で指摘した例を見てみましょう。最初の1ページ、冒頭のほんの3行に出てくる「耳をつんざくような奇声」とか「叩きつけるような雨」という表現を「定型句に頼りすぎ」とましたが、そもそも「ような」という婉曲的な言い回しは必要でしょうか? 「耳をつんざく奇声」とか「叩きつける雨」としたって通じるところですし、他の表現を工夫したっていいところですよね。奇声とか雨といった要素が、話のすじとはあまり関係ないとなれば「そもそもいらねーんじゃねえの?」ってツッコミまで浮かんできます。
開始2ページ目にあたる11ページ上段、国際会議場のドームについての描写はこんな感じです。
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前回、「一読して分かりにくい」と指摘した文章ですが、「霧状に舞い」とか「より幻想的な建物に見えた」とかの言い回しが固いってのも読みづらさに繋がっています。「○○状」とか「××的」ってのは文章を硬くする要因ですし、「幻想的」ってのも曖昧ですよね。厳しくいえば「幻想的」というのは「説明」で、どのように幻想的なのか表現するのが「描写」、描写の名人ともなれば説明などしなくともごく自然に読者を幻想的な感情に導くものです。だから僕としては、この文章についても「そもそもいらねーんじゃねえの?」と思ってしまうわけです。
前稿でも書きましたが、これが『日本原論』の漫才文体であれば、「国際テロ組織との和平会議が開かれるんだけど、会議場は温暖化で沈む島国で、そこがとんでもない暴風雨に見舞われてるんだよ!」なんてセリフ一つで済むんです。そっちの方がよほどテンポがよくて読みやすいのに、わざわざ細かく描写しようとして失敗している、ってのが『笑って人類!』の欠点なんですね。
まあ、そんなことは気にせず読み進めた読者も多いとは思いますが――少なくとも僕は、冒頭からして「描写がちゃんとできていない」と感じました。それも、「しっかり描写しようとしたあげく、ちっともしっかりしていない」って見えるもんだから、「作家の表現力」にまで疑問を抱いちゃったというわけです。
この「作家の表現力」というのも漠然とした言い方ですね。作家・太田光は描写の精度こそ低いかもしれませんが、物語を表現する力は超一流だと思います。僕はそれを『日本原論』を読んだ時から確信していますし、「太田光が他の作家の本を紹介する」という番組や本がたくさん発表され、好評を博していることからも明らかだと思います。
思えば、『日本原論』が革新的だったのは、漫才としての面白さはもちろんですが、漫才の手法で物語を展開させ、それを「目で読む文学」として成立させたという点ではないでしょうか。そして僕が『笑って人類!』に満足できないのは、漫才を離れて「目で読む文学」を目指したあげく、下手に描写に凝った勢いで物語の魅力が薄まったせいではないか、と考えています。
【極論と願望】
ここで、報道バラエティー番組での太田さんや、太田総理の姿勢を見習って、こんな極論を書いてみましょう。
どうせ下手なら、描写なんかやめちまえ!
無論、描写の一切ない小説ってのは難しいのかもしれません。ですが、描写がなけりゃいけないって決まりもないんです。明らかに描写が不得手な太田光が、わざわざそこで勝負しなくたっていいはず。描写の上手い作家、描写したがる作家、せずにはおれない作家ってのは他にもいるんですから。
かつて脳科学というのがブームになり、その関連本が流行った頃、「女性の文章力は男性の三倍」なんて言われたことがありました。どこまで科学的裏付けがあるのかは知りませんし、「三倍」って単純化が少年漫画の戦闘力比較みたいでインチキくさくて嫌だなあとは思うんですが――僕は実感として分かる気がするんです。美しい文章とか凝った描写とか、女性作家にゃかなわないと前々から思っていましたので。
いえもちろん、男であっても、三島由紀夫や太宰治、そして太田さんが何かと悪く言いたがる村上春樹みたいな文章家もいます。そもそも文章表現に性別の問題を持ち込むのが間違いなのかもしれません。とりあえず今のところは、「太田光は描写下手」って指摘だけにしておきましょう。
様々なアイデアや理想を盛り込んだ『笑って人類!』は抜群に面白い物語ですが、ファンタジー色の強かった既刊2冊よりもリアリズム小説の色を強めようとした点では失敗しています。太田さんは嫌がるかもしれませんが――村上春樹が、初期三部作から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を経て『ノルウェイの森』でリアリズム小説の文体を獲得したのと、実に対照的です。
ことあるたびに「サンドイッチ食いつつ洒落たこと言う日本人なんていない!」と春樹作品を揶揄してる太田さんですが、臆面もなく「スコッチ飲みつつ洒落たこと言うフロンティア国大統領!」なんて場面を書いちゃってる時点で負けてます。そこは太田光の勝負する土俵じゃないと、一ファンとして思うんです。日本人はダメだがアメリカ人(っぽい大統領)ならいいって思ってるなら差別ってもんだし、無自覚なままそういう場面を書いたのなら、文章表現での節制意識が足らないってことでしょう。
そこで極論ついでの提案というか、こんな願望を書いておきます。
『笑って人類!』の『日本原論』バージョンを読んでみたい!
地の文は禁止、下手な比喩も情景描写も禁止、ひたすら漫才形式でストーリーを語っていく……というスタイルで、『笑って人類!』をリライトしたらどうかと思うんです。というか、個人的に読んでみたいんです。
心理描写をどうするかって問題は残りますが、うまくまとまればきっと面白くなります。なにしろ漫才形式なら太田光のお家芸みたいなもんです。修辞上の凡ミスもなくなることでしょう。少なくとも話としては短くなるし、本は薄くなって軽くなり、読みやすくなるはずです。手首だって傷めずに済むことでしょう。作者の理想や未来に向けた提言だって、会話体を通して熱く訴えることができそうです。
その上で小説としても成立している作品であったら、日本の文学史に刻まれるような名作となりえたんじゃないかと思えます。そうしたら文学賞もよりどりみどり、どこかの芥川賞作家が言っていた「直木賞を越えている」という域にも達するんじゃないかと思えてなりません。
まあもちろん、そんなのは僕の個人的空想にすぎません。自分の理想を勝手に『笑って人類!』に投影しているだけだろうと言われたらその通りです。ですが――そうやって理想を抱くことの大切さを教えてくれた、ってのも、『笑って人類!』の魅力の一つじゃないでしょうか?