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【自我】自我の成り立ちと世界との不可分性

1・ただ一つの世界

私たちは自我により「わたしは私」と認識します。

その自我とは一体なんなのでしょうか。



世界はただそこに在ります。

それは広大無辺で唯一のものです。



世界は様々なモノや事象によって構成されているように見えます。

それは自我が、世界の一部を独自のやり方で分別をしたからです。



唯一無二の世界は、自我が行った無数の分別により、無数の意味や価値に分けられました。

それがゆえに、分別を行った主からは、世界に多様な存在があるように見えるようになったのです。



実は分別を行う自我も、世界は内包しています。



2・生き物の誕生 

自我は生き物に宿るとされています。

あるとき、世界のある部分が、有機体と後に自我が名付けるようなモノになりました。

有機体は、真理が定めた摂理により、進化と呼ばれる過程を経て、生きることを始めました。



その中で、一部の生き物とされる世界の一部は

世界の摂理ゆえに

逃れがたい世界の諸々の法則により

生きることを、子孫をつむいでいくことを、至上のしるべとしました。



もしくは、つむぐことをしるべとした何かが生き物となったのか。

それはわかりません。


いずれにせよ、生き物と呼ばれる世界の部分は、生きて産み増えていきました。

ひたすらに、その見えざる業に導かれて。



3・客観性の萌芽

生き物は、多様に姿を変えていきました。

そのうちの一部は、他の生き物より「高度」とされる存在となりました。



ここで言う「高度」とは、後の世のある自我達が決めたことです。

自分達の価値観と考えで、他の生き物を測った上で「高度」と定めたのです。



「高度」とされる「生存本能」を持つ生き物は、進化するために客観性を身につけます。



進化とは、その生き物の種が、より繁栄して、多くの子孫を残すために発達していくことですが

そのためには、客観性が必要だったのです。

4・客観性とは

客観性とは、世界を俯瞰して観ることができるということ。

世界を眺めることができるということは、観察者とその対象というように世界を認識できるということ。

それは唯一だった世界が二つに分かたれたことを意味します。



観察者とは己のことであります。

世界を眺めて己を認識するということは、己を唯一無二の世界から切り離した存在と認めることになります。




まずそのことは時の概念を心の中に生みました。

今までは、己がなく、広大無辺で悠久の時を在り続ける世界と同一でした。



そこから切り離して、他の存在と相対的に己を眺めることで、

世界ではなく、自身が変化していくという認識が芽生えたのです。

変化のスピードが違う己と世界を意識することで、時という考え方ができるようになったのです。



また他者という考えが生まれることで、社会性が生まれることとなりました。



これまでは本能に従って社会を築いてきました。

客観性を得てからは、己と他者や世界との比較により、

複雑な結果を生み出せる秩序が築けるようになったのです。



客観性を得て、己と世界とを切り離して考えられるようになると、

生存本能を満たすための様々な発見をすることもできるようになりました。



世界の中の己の立ち位置が分かると、

そこから己が優位に生きていくためには、どのようなことが必要となってくるのか

頭を使って考えられるようになり、世界から色々なモノを見つけることができるようになります。



客観性を得ることで、生存本能を満たすために、より高度なことができるようになったのです。

5・自我の目覚め

客観性を得て、世界と己を分けて考えるようになると、そこから無数の分別を始めます。



己という存在は、客観性を得て、唯一無二の世界から解き放たれることで、認識できるようになりました。

そのことから「世界は唯一ではなく無数に分別することができる」と信じるようになったのです。



各々の己が置かれた環境によって

またその個体の在り方によって

世界の特定の箇所に、意味や価値というラベルを貼っていきます。



赤くて甘くて丸いコレは林檎。

林檎が引っ付いているザラザラのこれは木。

木が生え出ている柔らかいドロドロは土。

そんな風に。



そしてその無数の分別の果てに、それらと相対しているものとは

それらを認識しているモノは「己」なんだという確信を得るに至り

そこで決定的な世界との決別がなされました。



これこそが私だ。

世界を分別して、今分別した存在をも分別した

私だ…と。



こうして自我は産まれましたが、その自我も唯一無二の世界を構成する存在です。

世界から分かたれたと信じながら、実は世界そのものであるモノなのです。











6・自我とは
 
自我とは、大海の中の一滴を、海水の氷の膜で閉じ込めたようなもの。



大海と一滴を隔てる膜がゆえに

一滴は大海とは違う存在だと思う。



だが氷の膜も海水でできていて

ひとたび溶ければ大海と一滴はまた唯一のものとなる。

いや

そもそも大海も膜も一滴も、同じ海の水。



一滴が膜で隔てられていることも含めて

唯一無二の大海なのだ。

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