【人間】生かされているから
私は自分が「幸せごっこ」をしているようにしか見えない時があります。
ごっこなので「あなた不幸だ」と言われれば、それだけでなんだか不幸になった気持ちがします。
それは、言葉が生み出した意味に振り回されているからなのですが
どうしてそうなってしまうのでしょうか。
原始の時代、人は凍え死なないために
毛皮を備え
餓死しないように
食物を蓄えるようになりました。
現代は、凍死したり飢え死ぬ可能性は低くなりましたが
人はよりよく生きるために
たくさん勉強をして、多くの人と交わり
多くの努力を重ねます。
そこで自分の立ち位置や実力を知るために、
いつも周りを観察して比較します。
目的を達成するためにはどうすればいいのか?
どのように努力をすればいいのか?
周囲の人間との比較によって考えさせられます。
同じ発想で幸せのことも考えます。
自分の周囲を見渡して
誰かが大型のキャンピングカーに乗っていて
幸せそうだったら
それを幸せになるために欲しがります。
美しい毛並みを持つ犬を飼っている人が
幸福そうだったら
同じような犬を飼いたがります。
目的を達成するために
幸せになるために
考えて決断して実行する。
しかしそれでいいのでしょうか。
人が幸せになるために
人々が繁栄するために
何かを行うことは、時に大きな犠牲を払います。
自分のことだけを考えていれば
他人の幸福など押しのけてもよい、という考えにつながります。
時には熾烈な競争に身を投じなければならないでしょう。
他者がどうなっても構わないと
自身の勝利を目指して。
自分の幸せに関係ない者には無関心で
人類の繁栄に寄与しない者は不要。
そんな思想にもなりかねないと思いますが
それでいいのでしょうか。
どんなに頑張って
他者を押しのけ競争に勝っても
いつか人は死にます。
いつのまにか産まれていて
しばし地上で生きたら
やがて死にます。
どんな目標を立てても
どんなに幸せでも
死ぬより他はないのです。
やがて死ぬとしたら
なんのために目的を目指して頑張るのでしょうか。
幸せになろうとするのでしょうか。
人のやっていることすべてに目的があるとすれば
「生きるため」
としか答えようがないでしょう。
では、なぜ生きるの?と問えば
「生きるために生きる」
としか言えないでしょう。
せいぜいその言葉に
「よりよく」
という単語を付けられるくらいです。
ですが、ここにもう一つの答えがあります。
それは
「生かされている」
と答えることです。
「生かされているから生きている」
ということです。
私たちは地上に生きている限りは
頑張って生きようとします。
そのことだけをとらえれば
生きるとは、個人的な事情に思えますが
実は、創生のときからの
無数の宿縁が
摂理に導かれて
結実した結果が「今、私が、生きている」ということなのです。
それは、私であって私ではない命が生きているということ。
私の視点に立てば「生かされている」ということ。
努力して生きるということは
世界から授かった命を養っている
ということでもあるのです。
自我という己に執着すれば
地上での幸せも
ほどなくして塵となるということになるでしょう。
ですが、自我をも内包する世界の視点ならば
そこには、ただ、あるがままの世界があり
人とされる者も
人が生きたということも
無数の縁とつながっている
世界そのものであり、その所作、ということになります。
私は私として
その私が望む幸せのために生きてもいい。
その思いは、所詮私の妄想であり
本当は、あるがままの世界がゆらいでいる結果でもあるのです。
己に執着して、その願望を叶えようとするのなら
時に、激しく他者とぶつかり
多くの人を押しのけて、不幸にしてしまうかもしれません。
だが己にこだわらなければ
「生かされている」という意識があれば
世界に一歩譲るとでもいいましょうか
他の自我に優しくすることもできると思います。
「生きているから生きる」
ということと
「生かされているから生きる」
この一見似たような言葉の、意味の違いの中にこそ
本当に幸せに生きるコツが、秘められている気がします。